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連載・特集

3.11以後 復興と表現 第1部 現場から <5>

◆作家 田口ランディさん(52)=神奈川県湯河原町

「利用されない」強さを

 福島原発事故が起きる前、反核、反原発という言葉を使うと「あ、反原発なんだ。へー、反核なんだ」と周りから引いた目でみられたという。「原発は要らないと思うのに、反核を口にすることがはばかられる空気があった。なぜそうなのか。その疑問が、核をめぐる歴史を考える出発点だった」と振り返る。

原発大国 なぜ

 「核の怖さを知りながら、なぜ日本は原発大国になったのか」。12年にわたって原爆、原発にまつわる問題を取材し、見えてきたものを昨年9月、「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」(ちくまプリマー新書)として出版した。

 長年の疑問。過去の文献を読むと意外な歴史に行き当たった。原子力の平和利用の出発点は、米国による水爆実験によりビキニ環礁で第五福竜丸が被曝(ひばく)した翌年の1955年にあった。全国で原水爆禁止運動が巻き起こる中、米国の原子力平和使節団が来日、平和利用を訴えていた。

 核の怖さを知り、原発を拒絶してもよかった日本。だが、政府はマスコミも通じ、原発は明るい未来をもたらすとし、反対する者は「反米」「社会主義者」とのレッテルを貼り、あたかも不利益を招くかのような印象を広めたとみる。

 そうした締め付けに反発するように反核運動も激化。「一般の人が入りにくい状況がつくられたのでは」。政府による世論誘導は原発の安全神話も生んだ。「導入するからには原発は安全でなくてはならない。『原発はクリーンで安全。危険性を検証する必要もない』。そんな思考停止状態が生み出された」と読み解く。  99年の茨城県東海村の臨界事故をきっかけに関わった核の問題。2000年、広島のテレビ局の依頼で8・6の番組製作に携わった。

 5年間、8月6日に広島に通い続け、被爆体験に耳を傾けた。しかし、なかなか小説には結実しなかったという。06年に発表した短編集「被爆のマリア」(文芸春秋)も「ヒロシマをいかに書けなかったかを書いたようなもの」と評する。

 一方でもどかしさも感じたという。無警告無差別の原爆使用は、戦時中であっても人間の倫理を逸脱しているとなぜ日本はもっと訴えないのか。平和や安全を絶対の正義とする中で、倫理を問うことが封印させられているような空気は原発にも共通しているのではと。

専門家と対話

 「賛成、反対の双方がもっと対話すべきでは」と問う。対話もなく、正義を主張し、市民同士が互いを弱体化させれば、政治に利用されるだけ。歴史は同じことを繰り返しているのではないか。もっと日本人は冷静に、理性的になるべきではないのか―。

 10年秋から2カ月に1回、東京都千代田区の明治大で最先端技術の専門家が市民と対話する「ダイアローグ研究会」を始めたのも、そんな思いからだ。原発に賛成、反対双方の論者を呼び、冷静に考えようとしていた時に3・11が起きた。

 「私は原発は不要だと思っているが、放射能が拡散した現実も直視しないと。数十年かけて廃炉にするには優秀な人材が必要。『原発なんてけしからん』と言ってるだけでは、もっと危険な状況を招く」。2月下旬の会では、市民一人一人が熱心に討論を重ねる姿があった。「簡単に結論の出ない問題を考える場を今後も提供していきたい」

 誰かに利用されない強さを持たなくては。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマがつながったと今は思っている。(守田靖)

たぐち・らんでぃ
 東京都出身。2000年、長編小説「コンセント」でデビュー。心や宗教に関わる作品が多い。3・11以後、福島県の子どもたちに伸び伸びと過ごしてもらう林間学校体験プロジェクトに参加。

(2012年3月7日朝刊掲載)

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