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連載・特集

「韓国のヒロシマ」陜川ルポ 被爆者 67年の歳月重く

 韓国慶尚南道陜川(ハプチョン)郡。戦後、広島から帰国した被爆者が多く、「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。3月下旬、現地で非核・平和大会があったのに合わせ、陜川郡を訪ねた。被爆から67年。なお、日本と海外との被爆者援護の格差が残る。一方で、新たな支援の動きが起きていた。(田中美千子、写真も)

手帳取得に証人の壁

 山あいの静かな集落からなる陜川郡は、ソウルから車で5時間。その外れに韓国唯一の被爆者養護施設「陜川原爆被害者福祉会館」が立つ。

 入所者は現在105人、平均年齢79歳。玄関を入るなり声を掛けられた。「よう来たね」「一緒に食べて行きんさい」。広島弁交じりの日本語が聞こえた。

 鄭正五(ソンジョンオ)さん(84)も流ちょうな日本語で静かに語った。「望みは特にない。ただ穏やかに暮らしたいだけ」

 1910年代に広島に渡って事業に成功した陜川出身者が親族を呼び寄せ、後を追う人が続いたとされる。鄭さんも、両親に連れられ、生後間もなく南区宇品に渡った。

 9人きょうだいの次男。家計のため運送の仕事をしていた18歳の時、西区己斐で被爆した。両足に大けがを負いながらも生き延びた。帰国後、朝鮮戦争の戦場となった古里で前線に立たされた。「幸せな時はあまりなかった」

 一つ気になることがある、と切り出した。「日本は被曝(ひばく)者が出たんでしょう。何とかしてあげてほしい」。遠く離れたフクシマに思いを寄せた。

 「被爆者健康手帳がほしくても、もらえない被爆者がいる」。中区江波地区で被爆した金日祚(キムイルチョ)さん(83)は訴えた。手帳を申請する在韓被爆者に付き添い、何度も広島市に訪れた経験を持つ。

 改正被爆者援護法の施行で被爆者健康手帳を海外から取得申請できるようになったのは2008年12月。しかし韓国原爆被害者協会によると、登録する約2650人のうち129人は今も手帳を持っていない。約640人が登録する同陜川支部の未取得者は37人に上る。

 手帳交付申請に際し、証人を見つけられないのが大きな理由だ。被爆から67年という歳月が重くのしかかる。

 金さんは、請われれば来館者に被爆体験を語っている。「原爆は子どもや孫の代まで困らせるものだと伝えたいから」。胃の手術のため入院するその日も証言に立った。

陜川がある慶尚南道

3世代対象 支援条例成立

 陜川郡がある韓国慶尚南道議会で2011年12月、被爆者支援条例が成立した。広島と長崎の被爆者とその子、孫までの3世代を対象に、持続的な支援を定める内容。被爆2世を中心とした被爆者支援運動が成立を後押しした。

 条例は、道内の3世までの被爆者について定期的な実態調査▽1年ごとの支援計画の策定▽原爆被害者の福祉支援―などを道知事に義務付けている。韓国の被爆者には、日韓両政府による医療支援が行われてきたものの、根拠となる法律や条例はなかった。

 条例成立の機運を高めた背景に、被爆2世運動の中心的存在だった若者の死がある。韓国原爆2世患友会を設立した金亨律(キムヒョンユル)さん。05年、34歳で肺疾患のため亡くなった。

 金さんの母親は広島で被爆。金さんは幼いころから肺炎に苦しみ、先天性免疫疾患と診断された。02年に患友会を結成し、2世への補償や支援を訴えた。10年には金さんの遺志を継ぐ被爆者支援団体「陜川平和の家」が発足した。

 陜川郡出身の文俊熙(ムンジュンヒ)道議(52)は「韓国では差別を恐れ、被爆者や被爆2世であることを隠している人が多い。条例が実行されれば、より多くの人を支援できる」と意義を強調する。

 金さんの死から7年。患友会顧問として活動を支える金さんの父、鳳大(ボンテ)さん(75)=釜山市=も条例成立を喜ぶ。「日本も、もっと2世が声を上げてほしい」と訴えた。


≪陜川原爆被害者福祉会館≫
 日本政府が1990年代に「人道的支援」として拠出した総額40億円の基金から建設し、96年に開館した。2009年に増築し、定員80人を110人に拡大。地上3階地下1階建てで居室のほか、診療室、面会室などがある。大韓赤十字社が運営し、現在の入所者は67~91歳の105人。うち70人を陜川郡出身者が占める。

(2012年4月2日朝刊掲載)

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