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連載・特集

1945 原爆と中国新聞 <3> 代行印刷

▽創刊120周年記念特集

屍の街歩き 軍無電で依頼

 米軍が1945年8月6日に投下した原爆で、広島市上流川町(中区胡町)の中国新聞本社は全焼した。輪転機2台も焼け、外部との通信機能も失う。新聞発行は壊滅的な打撃を受けた。生き残った人たちは、未曽有の事態に陥った中で発行再開へと動く。壊滅した広島へ新聞はいつ、どのように届けられたのか。惨状はどう報じられたのか。戦時下の原爆報道を追い、検証する。(編集委員・西本雅実)

壊滅3日後 代替紙届く

 8月6日朝、大下春男さん=当時(42)=は広島の空に上がる「一条の黒煙」を見て、五日市町(佐伯区)の自宅から中国新聞本社へ歩いて向かった。記事の見出しを付ける整理部長を代わったばかりだった。

 宮島街道で廿日市警察署からの救援トラックに便乗したが、広島デルタへ入る橋は落ちて車は入れない。出会った厳島支局長の沼田利平さん=同(43)=らと、枕木が火をふく電車専用の己斐鉄橋(爆心地から約2・3キロ)を渡った。

 行く手を猛火に阻まれながら「あるのはただ死体だけ」の相生通りを進んだ。

 「午後二時過ぎようやく本社に辿(たど)りついた」が、「輪転機は既に真(っ)赤になっている。巻取(まきとり)紙(新聞用紙)の倉庫も紅蓮(ぐれん)の焔(ほのお)だ」。口も利けなくなり座り込んだという。

 「午後四時半ごろだったろうか」。調査部長の糸川成辰(しげとし)さん=同(40)=らが駆け付けた。

 府中町に疎開していた山本実一社長=同(55)=と相談した善後策を聞く。「代替紙を依頼しよう」。電話も電信も途絶していた。そこで、「軍の無電が無事であるならこれを利用」して朝日、毎日新聞の大阪、西部本社へ依頼する算段となった。中国新聞は、広島県内での印刷を委託され、両紙の題字を併記した紙面を発行する関係にあった。

民心安定 記者の使命

 宇品町(南区)の陸軍船舶司令部へは糸川さんや沼田さんら3人が、二葉の里(東区)の第二総軍司令部へは大下さんら2人が、「いずれも棒のような足を引きずって」向かった。

 「1週間以上たち、『お父さんは府中町の社長邸で仕事をしているので安心してください』と若い社員が訪ねてきた」と、四男の大下祐司さん(75)=東区=は振り返る。父は亡くなるまで「あの日」のことを詳しく話さなかったともいう。

 大下さんは、米軍の日本占領が明けた翌53年に東京の富士書苑が刊行した「秘録大東亜戦史」で「歴史の終焉(しゅうえん)」と題し、広島の惨状とともに、記者たちの行動をつぶさに紹介している(71年の再刊時は「歴史の終末」と改題)。

 「歴史の終焉」からは、戦時下の記者が課せられた使命も浮かび上がる。

 未曽有の事態の中で発行再開に努めた思いを、「戦争さ中である。民心の安定と世論の統一のためには新聞を一日も欠かす事は出来ない」と記している。

 宇品へ向かった糸川さんの妻、春子さん(府中町)は3月に満100歳を迎えた。夫が東京勤務のころは二・二六事件(36年)や東京大空襲(45年3月)も体験していた。しっかりした口調で記憶をたどった。

 「糸川はあの日は夜遅く帰ってきて、『暁部隊(陸軍船舶司令部)の通信網を使わせてもらった』と申しました」。当時は牛田町(東区)に住んでいた。

 広島県が6日から記録した「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」(市公文書館蔵)には、遺体処置や救護所開設、食糧配給の各状況に加え、中国新聞についての記述がある(7日)。「差当リ大阪ヨリ拾万部、門司ヨリ拾五万部、松江ヨリ壱万弐千部配布方連絡シ明八日ヨリ入荷ノ予定」

 「中国新聞八十年史」(72年刊)は、「宇品からの無電依頼」が「近畿、九州両地区総監府を通じて朝日、毎日両新聞の大阪、西部本社」へ届いたという。中国新聞記者による広島壊滅の第一報でもあった。「松江ヨリ」は島根新聞(山陰中央新報)で、11日から中国新聞の題字も加えた1万部を「広島県比婆、双三両郡内の読者に配布した」(「日本新聞百年史」60年刊の島根新聞の項)。

見たまま報道できず

 記者たちが屍(しかばね)の街を歩き軍の無電で依頼した、代替紙は壊滅3日後の8月9日付から届く。

 西部軍管区発表の北九州地方や長崎への空襲を報じる1面トップの左横で、第二総軍教育参謀だった朝鮮王族の李鍝公の戦死(宮内省8日発表)と、「新型爆弾攻撃に」の見出しが付いた内務省防空総本部の発表が載る。「地下壕(ごう)は出来るだけ深く」  被爆直後の広島へ届き残っている紙面は、どこで印刷されたものなのか。

 朝日、毎日新聞の両西部本社で確かめると、当時は門司市(北九州市)にあった毎日新聞西部本社で刷られた早版だった。

 遅版では「八月六日八時十分ごろ」広島に投下された「曳火高性能爆弾」で「相当の被害ありたるも火災は同夜概(おおむ)ね鎮火せり」の記事が付く。朝日西部本社版は「曳光高性能爆弾」と書くが、共に中国軍管区司令部による「七日十二時」の発表。

 これまで言われてきた大本営発表より早い。大本営は「七日十五時三十分」に以下を発表した。

 「一 昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃に依(よ)り相当の被害を生じたり/二 敵は右攻撃に新型爆弾使用せるものの如(ごと)きも詳細目下調査中なり」

 各紙は翌8日付1面トップで大きく扱うが、「原子爆弾」と分かっても書けなかった。

 内閣情報局は、トルーマン米大統領が「原子爆弾投下」を16時間後(7日未明)に声明したラジオ放送を入手、回覧していた。呉鎮守府は既に6日午後5時半に調査隊を送っていた。

 物理学者の仁科芳雄博士が同行した大本営調査団は、広島で10日開いた陸海軍合同検討会で、「原子爆弾ナリト認ム」(大本営調査団報告書草案。原爆資料館が所蔵)と結論付ける。

 だが、軍部は国民への士気を理由に「原子爆弾」と発表することに反対し、政府も「新型爆弾」と呼んだ(情報局総裁だった下村海南「終戦記」48年刊)。

 広島で「原子爆弾」が中国新聞の代替紙で報じられたのは、戦争終結の詔書が載った16日付(朝日西部本社の代行印刷)。各紙の記者は大阪や山口からも7日から順次入った。目撃した被爆の惨状は、報道統制のため、ありのまま伝えることはできなかった。

 中国新聞は生き残った社員や家族の多くが6日当日から肉親の死に直面した。安否確認に追われた。

 山本社長は長男利(とおる)さん=当時(29)=の行方が分からなかった。編集局長だった利さんは3月に再び召集され、広島師団司令部報道班に所属していた。91歳となった妻の百合子さんは捜索に連日歩いた。身重でもあった。遺体は見つからなかった。

社の復興 任務と信じ

 速記部長を務めた山本安男さん=当時(42)=は、段原中町(南区段原南)の自宅から自転車で出勤途中、爆風に吹き飛ばされた。続いて、「顔はぷくぷくに火傷し」た一人息子が帰宅する。広島一中1年生の真澄さん=同(13)=は、市役所近くでの建物疎開に動員され被爆した。

 「その夜の十一時ごろであった。子供はかすかな息の中から、『ほんとうにお浄土はあるの?』と妙な質問を発した(略)『そこには羊羹(ようかん)もある?』」「『羊羹でも何でも…』声をくもらせて、やっとそれだけ妻が答えると『ほうそんなら僕は死のう』といった」(広島一中遺族会が54年出した「星は見ている」に収録)。

 山本さんは息子を手押し車に載せ火葬場へ運んだ翌8日、本社へ出る。

 がらんどうの本社入口で出会った幹部から、1台の輪転機を疎開させていた温品村(東区)へ出るよう頼まれる。その時の心境を表していた(主宰した短歌誌「真樹」65年8月号。歌人名は山本康夫)。

 「子供は死んで、人間の意思などあり得るはずもないのに、私はその瞬間から中国新聞社の復興を一つの任務と思い込み、心をかき立てられはじめていた」

 代替紙の発行に続き、自力印刷を目指す動きも未曽有の混乱の中で始まっていった。

(2012年4月7日朝刊掲載)

1945 原爆と中国新聞 <4> 取材者たち

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