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連載・特集

1945 原爆と中国新聞 <4> 取材者たち

▽創刊120周年記念特集

涙ながら向けたレンズ

 1945年8月6日を体験した記者やカメラマンらは、直後の惨状をどのように記録したのか。原爆投下で本社が全焼した中国新聞。自社の紙面が発行できなくなった中で、どのような報道に取り組んだのか。救護措置などを声を張り上げて伝えた記者たちの「口伝隊」や、戦争終結で掲載された惨状ルポとは…。被爆しながらも、取材に務めた新聞人たちを追う。(編集委員・西本雅実)

口頭で情報伝え歩く

 8月6日の夜明けを、中国新聞写真部の松重美人さん=当時(32)=は広島城内で迎えた。中国軍管区司令部の報道班員でもあった。

 カメラでとらえた「あの日」を92歳で亡くなるまで国内外で証言した。52年にいち早く出た「原爆第1号ヒロシマの写真記録」(朝日出版社)に寄せていた証言も交え、歴史的な写真を収めた行動を追うと―。

 松重さんは、前夜から続いた空襲警報による中国軍管区での待機が明け、翠町(南区西翠町)の自宅へいったん戻る。朝食を済ませ出勤する途中に便意をもよおして再び戻ったところで原爆に遭った。自宅は爆心地から南東に2・7キロ。

 「生き運があったから撮れた」。記者(西本)にそう述懐したことがある。

 妻や妹が営む理髪店兼自宅は窓枠が吹き飛ばされ、気がつくと腰に手をやった。普段から腰の革バンドにくくりつけていたマミヤシックスが、ぶらさがっていた。職業意識からであり、カメラは家財で一番高価だったからでもある。

被爆直後 惨状を撮影

 市中心街と結ぶ御幸橋を渡り、広島文理科大(広島大東千田キャンパス)辺りまで入ったが、火の手の勢いに引き返す。

 午前11時すぎ、爆心地2・2キロの御幸橋で熱線を浴びた老若男女を撮る。「報道カメラマンの使命とはいえ、顔をアップでと回り込むと、あまりにむごくて…」。証言のたびに「涙でファインダーがくもった」と語り続けたゆえんだ。

 午後3時すぎ、中国新聞本社が立つ八丁堀地区に入る。貯水槽を埋めた遺体、路面電車の中でつり革を持ったまま焼かれた人…。「いくどかレンズを向けて見たが、水をくれ、水をくれとうめき、いまにも黄泉(よみ)に旅だとうとしているこの人たちを見ると、とてもシャッターを切る気持ちにはなれなかった」(52年の証言)。

 それでも午後4時すぎまでに、御幸橋の西と東側で3枚、自宅内と外を含めて計5枚、被爆直後の市民の惨状を収めた。

 原爆のさく裂直後を地上から最も早く撮ったのが、後に運動部記者として健筆を振るう山田精三さん(83)=広島県府中町。当時は、支局から駅や郵便局に届く原稿を本社に運んだりしながら夜は広島三中に通っていた。

 6日は、工場動員が休みとなった幼なじみに誘われ、町内の水分(みくまり)峡で飯ごう炊さんをしようとなった。

 「登り口でB29と落下傘を見とったら…」。エノラ・ゲイの随行機が落とした落下傘付きの爆発測定無線装置のことだ。

 目の前でフラッシュをたかれたような光に続き「ドーン」とごう音がして、思わず地面に伏せた。

 「起き上がったら、真っ赤な太陽のようなものが見え、松林の向こうに雲が吹き上がる。何じゃろうと思い」、持参していた小西六のベビーパールで撮った。

 地上での撮影が確認されている原子雲25枚のうち、最も早い約2分後とみられる記録となった。「フィルムは松重さんに現像してもらった」という。

 だが、松重さん、山田さんの世紀の写真はすぐには掲載されなかった。本社が炎上し、自社の紙面がなかった。終戦後は、連合国軍総司令部(GHQ)が原爆の機密保持から9月19日付で検閲を敷く。

 2人が撮った写真が掲載されたのは、別会社から創刊された「夕刊ひろしま」46年7月6日付2面。検閲を意識して、「米誌が全世界に紹介」したとする前置き記事が付く。被爆の実態を伝える報道は、戦後も困難な条件から出発したのだ。

知事諭告 「戦勝ヲ信ジ」

 ここで再び、時計の針を45年8月6日に戻し、取材者たちの「あの日」を追う。

 本社での防護宿直が明け帰宅した、報道部記者の大佐古一郎さん=同(32)=は炎上する広島へとって帰った。妻の幸枝さん(94)は東京で健在である。「原爆が落ちると鹿籠(こごもり)(府中町)の家を飛び出し、何日も歩き回っていました」

 6日午後、中国軍管区司令部跡で包帯姿の松村秀逸参謀長=同(45)=を見つけ、「落下傘により新型爆弾投下」と情報を引き出す。署員が内部の焼失を食い止めた東警察署に移った臨時県庁では7日、太宰博邦特高課長=同(34)=から「他社の人へも渡してくれ」と知事諭告を受け取った(大佐古さん著の「広島昭和二十年」)。

 諭告は「我等ハアクマデモ最後ノ戦勝ヲ信ジ」と呼び掛けた(活版印刷ビラは県立文書館蔵)。中国新聞11日付(毎日新聞西部本社の代行印刷)で掲載されている。国の戦争は継続した。

 被爆した記者たちは、紙も墨汁もない中で7日、口伝隊を編成する。

 整理部長を務めた大下春男さん=同(42)=は「民心の動揺を防ぐ」任務について書き残している(「秘録大東亜戦史」53年刊に収録の「歴史の終焉(しゅうえん)」)

 自身も「罹災(りさい)者の応急救済方針、臨時傷病者の収容場所、救援食糧、被害の状況等」を伝えた。「心配しないようにと付(け)加えて怒鳴って歩くのである」

 臨時県庁を拠点に、避難場所となった比治山(南区)や饒津(東区)、東西の練兵場、延焼を免れた住居地を回った。

 「チリジリになった家族、知友、行き倒れた重傷者などこの口伝隊によって消息がわかったり、救護所に収容されたりした数は相当なものだった」

戦争終結後ルポ記事

 口伝隊は、軍の要請で編成され、指揮下にもあった。

 「原子爆弾という名称を使用してはいけない。言語に出したものも処罰する」と命令された。「そのうち何処(どこ)からか『ピカドン』という言葉が生まれ」、閃光(せんこう)と爆音をもじった呼称の使用は、「差(し)止めにならなかった」と記している。

 「中国新聞」の題字入り代替紙が届くと、焼け残ったビルの壁に貼り出される。9日、ソ連が参戦し、長崎へ原爆が投下された。

 12日付には「廣島にて岸田特派員発」の「『曳光高性能爆弾』でも姿勢を低く」との記事がある。誰なのか。朝日新聞西部本社通信部員、岸田栄次郎さん=同(30)=で小倉(北九州市)から7日入っていた。

 94歳で堺市で亡くなっていたが、参加した口伝隊についても証言している(朝日新聞87年8月5日付)。「ニュースの最後に必ずつけた『安心してくれ』が気休めでしかないのは、口伝隊のみんなも十分すぎるほど感じていた」

 岸田特派員が体験した広島の惨状ルポは、終戦1週間後、朝日新聞西部本社版22日付に載る。「死者八萬に達す」の見出しトップ横には「廣島にて吉田特派員記」も掲載されている。

 「辺りは死屍(しかばね)か、生屍か、蹉(つまず)きがちな記者の耳に痛ましき同胞のかすかなる呻吟(しんぎん)のみが伝はる」

 6日爆心地一帯に入り、ルポを書いていたのは西部本社報道部の吉田君三(くんそう)さん=同(38)。中国新聞から39年に移っていた(「朝日人物事典」94年編)。

 広島市南区に住む妹の大本八千代さん(86)を捜し当てると、「兄は門司(北九州市)への空襲で焼け出され廿日市町(廿日市市)の生家に戻っていました。都町(西区)にいた私を捜しにもきてくれた」と証言した。吉田さんは、戦後は廿日市町議を務め66歳で亡くなった。

 中国新聞8月23日付には、大阪海軍調査団と10日入った同盟通信の中田左都男さん=同(25)=が全焼した中国ビル屋上から撮った廃虚の広島が初めて載る。「一般市民の被害死傷者は続出してゐる」と報じた。

 終戦と、米軍の進駐・占領までの間、原爆の残虐性と広島の惨禍を伝える報道が起こる。中国新聞は市郊外の温品村(東区)で自力発行の再開を急いだ。

(2012年4月14日朝刊掲載)

1945 原爆と中国新聞 <5> 温品印刷

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