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連載・特集

『生きて』 広島女学院理事長 黒瀬真一郎さん <3> 英語へのあこがれ

高校時代の洋画刺激に

 1954年、三次市の塩町中に入学した。祖父の弟が米国シカゴにいたこともあり、英語の授業への期待は膨らんだ

 全部で4クラスのうち、2クラスは広島女学院大を出たばかりの若い女性教諭が受け持ちました。私がいたクラスを含む残り二つは、社会科の男性教諭が掛け持ちでした。

 隣の教室からはコーラスリーディングが聞こえてきて、うらやましかった。男性教諭はといえば「英語は書くこと、つまりスペリングが大切だ」。私たちは発音もせず、ひたすらアルファベットを書かされました。1年の英語の成績はさんざん。2年から少しずつ上がったとはいえ、中学時代の英語の成績は決して良い方ではありませんでした。

 2年生の時、NHKのラジオドラマ「新諸国物語」が映画化されたので、友人十数人とバスに乗って市中心部の映画館に行ったことがあります。中学では映画館に行くのは禁止でした。でも、ラジオを聞いて物語への想像が膨らんでいただけに、見たくて仕方なかったのです。結局、先生に見つかり大説教を食らったけれど、懲りずにまた行きましたね。教師は目を見開いたら生徒のことが見えすぎる。半分目をつむることも大切だと思います。

 57年、塩町高(現三次青陵高)に入学。大学を出たての英語科の男性教諭との出会いが転機となった

 村本照三先生です。5月のある日、村本先生が「映画を見に行こう」と誘ってくれた。中学では禁止だった映画に堂々と行ける。初めての洋画で、輪を掛けて心が弾みました。

 当時は1日3本立て。ハリウッド全盛で、ジェームズ・ディーンの作品を見ました。印象的なシーンとともに耳から入る英語は、ラジオとは違う感動があった。でも私は字幕を追うばかり。村本先生はみんなよりワンテンポ速く、くすっと笑った。洋画を楽しむためにも英語を勉強しなければ、と強く思いました。

 田舎とはいえ、映画を通して外国の文化を知り、英語への興味は増しました。そして「教師になりたい」と強く意識し始め、勉強が苦にならなくなりました。中学での経験があったからこそ、ハングリー精神が生まれたのかもしれません。(里田明美)

(2012年4月20日朝刊掲載)

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