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連載・特集

『生きて』 広島女学院理事長 黒瀬真一郎さん <4> 初任地で

教師の原点 生徒に学ぶ

 北九州市立大外国語学部を卒業した1964年、父の恩師の紹介で山陽高の英語教諭となった

 山陽高は、フジグラン広島(広島市中区)の場所に当時ありました。男子ばかり1クラス65人。元気でやんちゃな生徒がたくさんいました。

 月の3分の2は宿直をしました。小学校時代の三良幸雄先生との宿直が忘れられず、生徒に「泊まりに来ないか」と呼び掛けたら、毎回10人くらいが寝袋持参で来て。銭湯に行き、夜遅くまで語り合いました。

 校則を破ったり、つっぱったりした子もいたけれど、根は優しい子ばかり。話し込むと、ぽろっと弱音が出ます。反抗的な態度は、さみしさの裏返しだと気付きました。

 特に印象深い生徒がいる

 彼は新聞配達で授業料を稼ぎ、ボクシングにも打ち込んでいました。朝は走って新聞を配り、放課後も販売所で働いた後にジム通い。結果、インターハイで優勝しました。早稲田大などに特待生として招かれたのに、「進学は高校まで」という父親との約束を守って断ったのです。

 みんな表面には出さないけれど、いろんなものを背負っていました。「先生」と呼ばれながら不平不満を言っている自分が恥ずかしくて。生徒から学ぶことの方が多かった。山陽高で教師の原点を教えられたのです。

 66年5月5日、同僚の禎子さんと25歳で結婚した

 禎子は引き揚げ者で2歳年上。私の家族は結婚に猛反対でした。妻はそのとき、「誠意を持って、私たちが夫婦としてやっていけることを証明しましょう」と。2年かかりましたが、夫婦になることができました。

 妻の父からも多くを学んだ

 義父は28歳で校長となり、戦時中は現在の韓国・大邱市周辺の小学校長でした。敗戦後、引き揚げると、一教員として組合活動を始めました。管理職からの「転向」です。戦前の教育の誤りに気付き、反省の思いもあったようです。

 教員だった私の父は、小学校長で退職しました。2人の生き方は対照的ですが、生徒を愛する気持ちはともに熱かった。生徒の心に寄り添う教師になりたいと思いました。

(2012年4月21日朝刊掲載)

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