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連載・特集

1945 原爆と中国新聞 <6> 報道と再びの災禍

▽創刊120周年記念特集

被爆影響 手探りで伝える

 1945年8月6日の原爆投下で本社が炎上した中国新聞。広島市郊外の温品村(東区)に疎開させていた1台の輪転機を動かし、9月3日付から自力発行を再開する。くしくも同じ3日、米従軍記者団が被爆地に入った。5日後には米軍の原爆調査団がやって来る。広島は「一切の生物は生息不可能」との風評にもさらされていた。被爆した報道機関は何を伝えていったのか。日米で始まった原爆報道を検証する。(編集委員・西本雅実)

台風襲来 また発行停止に

 「今次大戦の終結をつける有力な導因となつた原子爆弾の威力とその最初の被害地広島は今や全世界の注目を浴び進駐軍とともに」  中国新聞9月5日付は、2面トップでこう書き出し報じた。米国人記者団が3日広島に入り、県警察部の太宰博邦特高課長や県政担当の記者たちと会談した内容だ。

米記者団と意見交換

 原爆投下をめぐり、日米の市民が初めて意見を交わした記録でもある。一問一答形式で載せた主なやりとりを再録すると―。

 県政記者団 広島市惨状をみてどう感じたか。

 米記者団 ヨーロッパ太平洋の各戦線を従軍したが、都市の被害は広島がもつとも甚大だと思つた。

 県政記者団 原子爆弾を投下した地域は今後七十五年間人類や生物の生棲(せいせい)は不可能だといふが事実か。

 米記者団 わが国から学者が来て調べるとはつきりすると思ふが、現在は何も分からぬ。

 一行は、ニューヨーク・タイムズ、AP、UP通信など有力メディアの記者や米軍広報官、通訳の日系2世ら約20人。厚木飛行場から呉経由で広島へ入り、爆心地一帯を歩いた。

 会談は府中町の東洋工業(マツダ)に置かれた県庁で行われた。出席した報道部記者の大佐古一郎さん=当時(32)=は、被爆地への「初めてのアメリカ人」でもあった戦勝国の同業者を後にこう表している(「広島昭和二十年」75年刊)。

 「彼らの立派な服装やカメラ、アイモなどに比べると、われわれはよれよれの国民服に地下足袋、巻き脚絆といういでたち、カメラは誰も持っていない」。大佐古さんは被爆による倦怠(けんたい)感にも襲われていた。

 県政記者団が尋ねた「七十五年」というのは、原爆開発計画に当たったハロルド・ジェイコブソン博士が、広島への原爆投下直後に述べた見解に始まる。

 「実験からは原爆を浴びた地域の放射能は約70年は消えない。広島は75年近く荒廃の地となるだろう」(アトランタ・コンスティテューション8月8日付)。米通信社が配信した。

 博士の見解は日本へも届き、毎日新聞が大阪本社版8月23日付で「今後70年は棲(す)めぬ 戦争記念物・広島、長崎の廃虚」と報じた。記事は中国新聞27日付(毎日新聞西部本社の代行印刷)で広島に伝わる。

 「日本の当局からは何の指示も注意もなかったから、不安や恐怖の拡(ひろ)がるのも、デマがとぶのも、無理もなかった」。広島文理科大の小倉豊文助教授=同(46)=は被爆3年後に著し、英訳された「絶後の記録」で影響の大きさを書き留めている。

 被爆地に初めて入った米国人記者はヒロシマをどう受けとめたのか。ニューヨーク・タイムズのサイトで探すと、W・H・ローレンス記者のルポが9月5日付1面に掲載されていた。

 「原爆はいまだに1日100人の日本人を殺している」「街は死臭が漂い、生存者や遺族はガーゼで口元を押さえ、ガレキの中で遺体や家財を捜している」「最終的な死者の数は8万人を超すとみられている」

 惨状を見た記者たちは、原爆の残虐性や放射能の影響を見逃せなかった。だが、「マンハッタン管区調査団」の広島入りを機に米国での論調は一変する。

 原爆開発「マンハッタン計画」のナンバー2、トーマス・ファーレル准将が率いた調査団は8日、岩国経由で着く。連合国軍総司令部(GHQ)は政府に協力を指示し、東京帝大医学部の都築正男教授=同(52)=が同行した。教授は、広島の宿で被爆して東大付属病院で8月24日に死んだ新劇移動演劇隊員、仲みどり=同(35)=を「原子爆弾症」と初めて診断した放射線医学の第一人者。

「75年説」を准将否定

 調査団は翌9日、広島城跡から廃虚を視察。爆心地での残留放射能測定や、傷病者を収容した比治山国民学校(南区)や、広島赤十字病院(中区)で予備的な調査を始めた。

 中国新聞10日付は「連合国の原子爆弾調査団来広」を、「嘘(うそ)だ、七十五年説」の4段見出しを付けて詳しく報じた。

 「原子爆弾の毒素は今後七十五カ年影響力を持つと報道されたが(略)どう思はれるか」。「広島市民が最も知り度(た)い点」を都築教授が尋ねると、准将は即座にこう答えた。「七十五年なんてとんでもないことだ。あの爆弾は(略)二、三日後からは影響ないはずである」

 東京に戻ったファーレル准将は12日、「爆心地周辺に放射能の形跡はなく、被害区域に住んでも人体への影響はない」と会見し、ニューヨーク・タイムズ13日付は「広島の廃虚に放射能なし」と見出しにとった。

 米軍は、原爆投下の直後から残留放射能の存在や影響を否定した。その後の調査研究で、土壌が放射化された誘導放射線(残留放射線)は投下2週間後には人体に影響のないレベルになったとされる。だが、水を飲むなどした内部被曝(ひばく)の影響は今もはっきりしない。

 ファーレル准将は「調査団は貧血と脱毛を訴える10人を検査した。白血球数は著しく低下していた」とも9日、本国に報告していた(国会図書館憲政資料室蔵の「日本占領関係資料」による)。しかし原爆の機密保持から、これらの調査内容が明かされることはなかった。

 当初、医療機関も放射線障害による血便患者が現れると「赤痢」とみて隔離した(広島逓信病院で被爆直後から救護に当たった小山綾夫医師の手記)。行政も市民も放射能の知識はなく、米軍や専門家の意見を信じるしかなかった。

 中国新聞は「南瓜(かぼちゃ)も薬になる」(4日付)「すぐすゑろ お灸」(8日付)と未知の原爆症に対する民間療法も取りあげた。「復興も市民への温かいのみものから」(6日付)。焼け残った市立浅野図書館に喫茶店ができたのを、写真付きで報じた。被爆をめぐる治療も報道も、手探りの中から始まった。

広告欄に地元告知も

 10日付では、赤十字駐日主席代表のマルセル・ジュノー博士=同(41)=が調査団に同行し、「十五トンの救援医療品」を携えたのも伝えた。原爆について、「われわれはかかるものを二度、再び使用しないですむやうつとめなければならない」との談話を紹介している。

 博士の通訳兼案内をしたのは、報道部長の加藤新一さん=同(44)=だった。「県から頼まれ全市をジープに同乗して」回った(67年、被爆者健康手帳申請に添えた文書)。翌11日付では、厳島支局長の沼田利平さん=同(43)=が調査団に取材した記事が載る。

 2人は10代のころ米国に渡り、ロサンゼルスで刊行した邦字紙「米国産業日報」の元編集者でもあった(「南加州日本人史」57年刊)。沼田さんは日米開戦前年の40年に、加藤さんは開戦に伴う翌42年の第1次日米交換船で帰郷した。

 中国新聞の自力発行で広告欄も地元の告知が載る。「至急連絡せよ」。広島県が5日付で職員や遺族に呼び掛けたのに続き、各統制組合、東西の警察署長と連名で遊郭の「急告」も出る。広島瓦斯、広島電鉄、油谷重工業、東洋工業、女学院専門学校…。合同慰霊祭の開催も通知された。

 「本社同人の現在までに判明せる戦災死者は五十九名」。中国新聞は4日付で社員の死没者名を報じ、「社員急募」の告知を6日付から連日載せた。自力印刷を始めた温品工場での新聞制作は、電力不足から輪転機の調子は上がらず、綱渡りが続いていた。

 そこへ未曽有の暴風雨が襲う。9月17日に襲来した枕崎台風である。県沿岸部を中心に死者は2012人に上った(「広島県砂防災害史」97年刊)。

 「橋は落ち、道路は湖 台風広島県下を襲ふ」

 この見出しに「洪水と戦ふ村民」の写真を添えた18日付が「温品版」の最後となる。再びの災禍で発行停止に追い込まれた。

(2012年4月28日朝刊掲載)

1945 原爆と中国新聞 <7> 本社復帰

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