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連載・特集

ヒロシマ音楽譜 作品が紡ぐ復興 <2> エドマンド・ブランデン

再生する街 感銘の詩

国境を越え継がれる心

 一編の詩が、さまざまな作曲家に歌い継がれていく。被爆3年後に広島を訪れた英国の詩人、エドマンド・ブランデン(1896~1974年)の詩もその一つ。英国を代表する詩人であった彼は、灰じんに帰したはずの広島の復興ぶりに感銘を受け、翌年のヒロシマ平和祭に詩を寄せた。「ヒロシマ 一九四九年八月六日に寄せて」(寿岳文章訳)。

 詩は、日本語歌曲の大家、山田耕筰により合唱曲となってその平和祭で披露された。山田自身は、被爆直後の演奏旅行の途上で広島と長崎の惨状を目にし、強い衝撃を受けている。それから4年、「かの永劫(えいごう)の夜をしのぎ はやもいきづく まちびとの…」と、広島の再生をうたう詩に山田は旋律をのせた。

 被爆から40年がたち、詩は別の作曲家の目にとまる。「花の街」で知られる團伊玖磨は、広島青年会議所の依頼を受け交響曲第6番「HIROSHIMA」を作曲した。しの笛とソプラノ独唱が入り、50分余りに及ぶ大作。原爆被災だけではなく、鞆や音戸の民謡が使われるなど広島の歴史と風土がテーマとなっている。

 その終楽章の後半部分にブランデンの詩は現れる。なかでも團が共鳴したのは、焦土から立ち上がる人々の姿が人類賛歌へと昇華される結句であったようだ。「ヒロシマよりも誇らしき 名をもつまちは世にあらず」で始まるこの最終節は、交響曲全体のクライマックスとなる。ブランデンの受けた感銘は、なおも響き続けていた。

 世界の人が理解できるよう、團は歌詞を原作の英語のままとした。これより3年前の1982年、英語の原詩はブランデンの古里の英国で広島の児童合唱団によって歌われていた。英国王室付音楽家マルコム・ウィリアムソンが、広島市の依頼を受けて作曲した合唱曲「ヒロシマのうた」である。

 この曲では詩句の歌唱とともに、「ヒロシマ」が冒頭から終始、不協和音で唱和される。反核運動が高まっていた時代に、ブランデンの詩を世界はどのように受け止めただろう。(広島大特任助教・能登原由美)

(2012年5月19日朝刊掲載)

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