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連載・特集

ヒロシマ音楽譜 作品が紡ぐ復興 <3> 木下航二

「許すまじ」世界が合唱

切実な思い 連帯の要に

 ヒロシマに関わる歌、と聞いてこの曲を思い出す人は今、どのくらいいるだろうか。木下航二(1925~99年)作曲の「原爆を許すまじ」。往時の知名度が失われたとはいえ、やはり最もよく知られた曲といえば今でもこの歌になるのかもしれない。広島だけではなく日本、それどころか海外にも広く知れ渡った歌、といえばなおさらだ。

 厳密に言えば、この歌はヒロシマだけを想定して書かれたものではない。54年3月、ビキニ環礁での米水爆実験でマグロ漁船、第五福竜丸が被曝(ひばく)したのを機に、日本の原水爆禁止運動が一挙に高まった。東京の高校で社会科を教えていた木下は、原水爆禁止の歌の募集を見て浅田石二に作詞を依頼し、曲が完成した。

 歌は同じ年に東京で初演され、8月6日には広島でも披露されている。だが、この歌に対する人々の熱狂が広島市民に伝わるのは、翌55年の8月6日から3日間にわたって開かれた第1回原水爆禁止世界大会においてであった。14カ国から2500人余りが参加した大会の最終日、木下自身の指揮で全体合唱されたのである。

 そのころ、歌はすでに海を越えていた。ワルシャワで開かれていた世界青年学生平和友好祭において同じ8月6日、各国語に翻訳されたこの歌が、千人の合同合唱団によって歌われている。その後も、原水爆禁止や反核運動が高まるごとに国内外を問わず取り上げられてきた。

 なぜ、これほど広まったのだろう。メロディーラインの歌いやすさも理由の一つであろうが、核の脅威にさらされたとき、人々は連帯の要であるかのようにこの歌を口ずさんでいる。「三度許すまじ原爆を」。メロディーの頂点と重なるこの言葉に、ただ一つの切実な思いをこめやすかったのかもしれない。

 今では、この歌をかつてほどは耳にすることはない。メロディーが時代に合わないのか、あるいは、歌一つではまとまれないほど時代は混迷したのだろうか。(広島大特任助教・能登原由美)

(2012年5月26日朝刊掲載)

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