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連載・特集

ヒロシマ音楽譜 作品が紡ぐ復興 <4> ジョルジュ・ムスタキ

絶えない戦争に警鐘

平和と自由実現へ歌う

 「平和と自由が実現されていないから私は歌う」。自作のシャンソン「ヒロシマ」を携え1976年に初めて広島を訪れたジョルジュ・ムスタキ(34年~)は、新聞社の取材に答えている。ベトナム戦争に中東戦争と、60年代に入ってもなお、どこかで新たな戦争が始まっていた。「ヒロシマ」を創作したのは、こうした世界に警鐘を鳴らすためだった。

 ムスタキは、ギリシャ系ユダヤ人の両親の亡命先、エジプトで生を受けた。17歳でパリへ出た後シャンソンを書き始め、伝説的シャンソン歌手、エディット・ピアフのために書いた「ミロール」のヒットで注目を集める。その後、自らの境遇を歌った「異国の人」が大ヒットし、歌手としての活動も本格化させるようになった。

 「ヒロシマ」を発表したのは72年、すでにシャンソン歌手としての名声を確立していたころだ。決して声高に政治的な発言をしてきたわけではない。しかし、彼の自伝には、子ども時代に戦禍の記憶がさりげなく重ねられ、その歌には戦争や社会に対する抗議がそれとなく表される。柔らかく語りかけるような彼の歌声のように。

 歌い口は「ヒロシマ」でも変わらない。だが、わずか16小節の旋律上に韻を踏んだ短い詩句を繰り返すシンプルな構造からは、根底に流れる強さ、厳しさが切々と感じられる。「ヒロシマ」という語が登場するのは曲の末尾。「ヒロシマからもう少し遠くに 多分あしたには来るだろう 平和が」(ヒロコ・ムトー訳)。

 謎めいた言葉だが、ムスタキ自身の次の言葉が補ってくれる。「ヒロシマが私たちの心の中からもう少し遠くに、そしてはるかかなたへ去っていった時、はじめて平和が訪れるのではないでしょうか」。つまり、相次ぐ戦争への警鐘のシンボルとしてヒロシマを捉えた彼にとって、ヒロシマはまだ続いていたのである。

 原爆資料館を見たムスタキは、館外に広がる平穏な日常との差に衝撃を受けていた。広島の復興とは何か。問いかけてくる歌である。(広島大特任助教・能登原由美)

(2012年6月9日朝刊掲載)

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