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連載・特集

ベトナム 枯れ葉剤半世紀 米軍「兵器」 今なお苦しみ

 ベトナム戦争に軍事介入した米軍が戦況打開のために使った、猛毒のダイオキシンを含む枯れ葉剤。1961年から71年までの間に南ベトナムで計8千万リットルをまいた。その影響とみられる病気や障害を発症したベトナム人被害者は300万人に上るとされる。戦争の背景や枯れ葉剤散布の経緯、癒えぬ傷痕の実態を、被害者支援に取り組む日本、ベトナムの識者3人へのインタビューも交えて紹介する。(教蓮孝匡)

生体実験に等しい行為

報道写真家 中村梧郎(なかむら・ごろう)さん(71)

 ベトナム戦争報道は当時、世界に反戦の大きなうねりを生んだ。一方で、ベトナムの人々の戦後の苦しみは知られていない。アジアで暮らす私たちは、ベトナム発展の陰に、声を上げられぬ戦争被害者がいることを見落としてはならない。

 通信社の派遣で1974年に戦時下の北ベトナムを取材した。解放後はどうなっているのか。76年、ベトナム最南部、メコンデルタのカーマウを訪れた。緑の葉が生い茂っているはずのマングローブ林は、見渡す限りの枯れ野。鳥のさえずりもない不気味な静けさだった。現地の助産師は、二重体児など異常出産の多さを訴えていた。「被爆者が苦しみ続けた戦後の広島と同じことが始まる」と直感し、取材を始めた。

 原爆と同様、戦後に悲劇の実態が徐々に明らかになった。30年以上を経た今、取材を続けなければいけないこと自体が枯れ葉剤の恐ろしさの証しだ。

 ダイオキシンの毒性は、戦時中から米国の研究者も警告していた。だが、米軍は人が暮らし、作物が育つ地にまいた。今も汚染地で暮らさざるを得ない人もいる。生体実験に等しい。国家は目の前の目的に突き進み、被害が出た後は知らん顔をする。私たちは被害者に寄り添い続ける。

中村梧郎さん
 1940年、中国・北京市生まれ。通信社勤務を経て、81年からフリー。枯れ葉剤や日本の公害問題を追う。ホーチミン市戦争証跡博物館に作品が常設展示。著書は「戦場の枯葉剤」「新版・母は枯葉剤を浴びた」など。さいたま市在住。

原爆と同様 実態解明を

山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑理事長 岩本晋(いわもと・すすむ)さん(69)

 1969~72年に米国留学中、キャンパスでは友人たちが「先日、父がベトナムで戦死した」「負傷した兄が帰ってきた」などと話していた。戦争はすぐそこにあった。今もベトナムと関わり続けている原点だ。

 2000年ごろに山口市であったシンポジウムで、ベトナムの残留ダイオキシンを知り衝撃を受けた。兄や仲間の医師とダナン空港周辺の調査を始めた。周りからは「なぜ今さら枯れ葉剤か」と言われた。だが、周辺の土壌や小中学生の血液からは、当時でも高濃度のダイオキシンを検出した。終わっていない問題だと確信した。

 採血のために講堂に集まった子どもは、なぜ呼ばれたのかを知らなかった。私たち以前にも「一帯の井戸水や魚は人体に有害だ」との警告はあったが、住民には事実が伝わっていない。私たちはハノイでの国際会議で発表したり、助成を受けた日本政府に報告したりしたが、どれだけ役に立てたのか。

 原爆も枯れ葉剤も、多くの人を長い間苦しめている。私は被爆者とも接してきた。被爆地とベトナムの人たちは心の底から平和を願っている。被爆者の訴えは世界に伝わり、長崎以降の原爆使用を食い止めてきた。ベトナムの悲劇を繰り返さぬため、被害の実態を追い続ける必要がある。

岩本晋さん
 1943年、旧満州(中国東北部)生まれ。山口県立大看護学部教授だった1999~2001年、ハノイ医科大と共同でベトナム・ダナンで枯れ葉剤影響調査を実施。代表を務めるNPO法人を通じ、被害者支援に取り組む。山口市在住。

国際的な支援が不可欠

ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)対外関係局長 グエン・ミン・イーさん(71)

 ベトナムでは、先天性障害のある子どもが生まれるのは、祖先が悪い行いをした報いだと信じられてきた。ダイオキシンなんて誰も知らなかった。被害者や家族は偏見や差別の中で、苦しみを包み隠すしかなかった。

 VAVAは2003年、ベトナム政府の承認の下に設立した。被害者のリハビリやデイケア、職業訓練を提供している。貧しい家庭のために新しい家を建てたり、政府に新たな支援策の創設を提言したりもしている。

 今や、ダイオキシンによる健康被害や遺伝的影響は多くの科学者が証明している。VAVAの代表者たちは04年、枯れ葉剤を製造した化学企業を相手取った損害賠償訴訟を米国で起こした。何十年も放っておかれた何百万人もの被害者の怒りが詰まった訴えだった。だが、訴えは09年に米連邦最高裁で棄却された。企業は「政府からの注文を受けて製造しただけ」との無責任な態度に終始した。悔しい。

 今後も米政府と化学企業の責任追及は必要だ。一方で、被害者の支援活動は急務だ。資金は不足している。VAVAは活動資金の大半を寄付でまかない、ほとんどのスタッフは無償で働いている。米国や日本など国際的な協力がさらに得られるよう、訴えていく。

グエン・ミン・イーさん
 1940年生まれ。ベトナム陸軍を退役後、退役軍人会国際局長などを経て現職。ハノイ在住。

民間の死者400万人 ベトナム戦争

 ベトナム戦争は1960~75年、「北ベトナム、南ベトナム解放民族戦線」と「米国、南ベトナム」の間で戦われた。背景には、第2次世界大戦後の大国の勢力争いがあった。

 45年、フランス領インドシナに進駐していた日本が降伏すると、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)はハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言。再支配を狙うフランスとベトナムの間で第1次インドシナ戦争が起きた。

 54年のジュネーブ休戦協定で仏軍は撤退。ベトナムは北緯17度線で南北に分断された。

 55年、南ベトナムに親米政権が誕生。休戦協定で定めた56年の南北統一選挙は実現しなかった。北ベトナムは60年、民族統一のため対南部の武力闘争を決め、南ベトナム解放民族戦線を結成した。ベトナム戦争の始まりとされる。

 米国はこれを「共産主義による侵略」とみなし、南ベトナムを軍事支援。北ベトナムへの空爆など本格介入していった。駐留米兵は69年末には54万人に達し、韓国やフィリピンの派兵も加わった。北側はソ連や中国の支援を受けて対抗。戦争は泥沼化した。

 米軍はナパーム弾など最新兵器を次々と投入したが、苦戦。米軍による枯れ葉剤使用や民間人の大量虐殺も報じられ、反戦運動が世界に広がった。73年のパリ和平協定で停戦となり、米軍は撤退を開始。75年4月、北ベトナム軍がサイゴン(現ホーチミン)を陥落させ、戦争は終わった。

 戦死者は、南北ベトナムで軍人が計約130万人、解放戦線兵士を含む民間人は計400万人。米軍は約5万8千人とされる。

市場経済導入し急成長 86年の「刷新」後

 正式な国名はベトナム社会主義共和国。建国の1976年からベトナム共産党による一党独裁体制が続く。人口は約8700万人、54の民族が暮らす。面積は日本よりやや小さい約33万平方キロ。

 86年に採択したドイモイ(刷新)で市場経済を導入。外資系企業を受け入れ90年代前半から急成長した。2000年以降の経済成長率は5~9%台。

 首都ハノイや最大都市ホーチミンでは近年、外資系の大型スーパーやコンビニエンスストアの出店が相次ぐ。魚や野菜が山積みの市場や、てんびん棒を担いだ行商人も健在。日本の化粧品や漫画は若者に人気だ。

 国営企業や政府系機関・団体の公務員の平均給与は月約160ドル。副業を持つ人が多い。高温多雨で気温40度を超す時季も。昼寝の習慣があり、町のあちこちで長いすやござに寝転ぶ姿が見られる。

 少数民族が多い中国国境沿いや中部山岳、南部メコンデルタは、教育や医療が行き届かない地域も多い。

ダイオキシン 被害300万人

散布8000万リットル/異常出産が多発

 ベトナム最南部、メコンデルタのミトー。この町に住むゴ・ゴック・トットさん(82)は1960年代前半、南ベトナム解放民族戦線の指揮官として、ミトー周辺の密林を転戦した。ある朝、3機の機影を見た。白い霧のようなものをまきながら上空を通過した。

 数日後、木々の葉は黄色く枯れ落ちた。だが、食料は森にしかない。枯れ葉剤に汚染されたバナナを食べ、川の水を飲み続けた。

 あれから半世紀。長女ハンさん(48)は筋肉の萎縮と脳障害、次女ミーさん(46)は軽い脳障害がある。戦前生まれの4人の息子は健康だ。「戦争に行ったせいで娘たちの人生を壊してしまった」。心臓病を患うトットさんは自らを責める。親子3人は政府の枯れ葉剤被害認定を受け、支援金が生活の糧だ。

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 戦争中、解放戦線と北ベトナム軍は、南ベトナム内のジャングルに潜み、攻撃を仕掛けた。米軍は敵の拠点をたたくため、枯れ葉剤使用を決定。北側にひそかに協力する村々の田畑を枯らし、食料補給を断つ狙いもあった。敵にも味方にも「人畜無害」と宣伝した。

 61年8月、中部コントゥムで試験散布。71年10月まで約2万回、計約8千万リットルを各地にまいた。その後も、南ベトナム軍が散布を続けたとされる。

 ラオス国境沿いの山岳地帯を抜ける北側の補給路「ホーチミンルート」周辺や、解放戦線の根拠地メコンデルタは特に散布が激しかった。隣接するラオス、カンボジアへもまかれたが、詳しいデータは今なお非公表だ。

 散布地域では戦時中から異常出産やがん患者が多発した。ベトナム最大の産科院、ホーチミン市トゥーズー病院の元院長グエン・ティ・ゴック・フオン医師(68)は研修医だった60年代前半、院内の異常出産の多さに驚いた。同僚と一緒に、親の出身地や戦前の異常出産率を調査。死産の胎児を海外の研究機関にも送った。その結果、62~65年に南ベトナム各地で異常出産が急増し、散布が激しい地域ほど高率と分かった。

 さらにフオン医師は82年、ベンチェー省とホーチミン市の千世帯を対象に、流産と未熟児の発生率を調査。父母が枯れ葉剤を浴びた場合は8・01~16・7%、浴びていない場合は3・6%だった。

 一方で、ベトナム政府はこれまで、枯れ葉剤被害者の総数や先天性障害の発生率についての全国的な調査をしたことはない。

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 米コロンビア大のジーン・ステルマン教授(65)の研究では、枯れ葉剤で放出されたダイオキシンは計366キロ。世界保健機関(WHO)が「体重60キロの人が1日に摂取しても健康に影響がない」とする量は240ピコグラム(1ピコグラムは1兆分の1グラム)。散布圏域には480万人が暮らし、うち300万人に健康被害が出たとする。大地や河川も汚染の爪痕を残す。

 ベトナムの枯れ葉剤被害者協会(VAVA)の代表者たちは2004年、枯れ葉剤を製造した米化学企業を相手取った損害賠償訴訟を、米国で起こした。だが、米連邦最高裁は09年、訴えを棄却。「枯れ葉作戦は国際法に反していない上、ベトナム人の被害と因果関係が認められない」との理由だった。

 対照的に、米化学企業は84年、ベトナム帰還米兵による同様の集団訴訟で1億8千万ドルの支払いで和解した。

 米政府は91年から一部の帰還米兵への枯れ葉剤補償を始めた。だが、95年の国交正常化以降もベトナム人被害者への責任を認めず、賠償もしていない。

 VAVAによると、ベトナム政府は11年、約7千万ドルを被害者支援に充てた。一部の元兵士とその子どもは月20~90ドルの支援金を受けている。だが、民間人への支給はない。

 環境対策はようやく動きだした。11年、ベトナム中部のダナン国際空港でベトナム、米国合同事業のダイオキシン除去が開始。国内に28カ所残る高汚染地「ホットスポット」の一つだ。全28カ所の除去には最短でも20~30年かかるという。

枯れ葉剤
 米軍がベトナム戦争で使った、猛毒ダイオキシンを含む除草剤。米国の化学企業ダウケミカル、モンサントなどが製造した。

 15種類あり、ドラム缶に白、紫、青などの色を塗って区別。葉や樹木、作物など対象によって使い分けた。使用量全体の6割を占めたエージェント・オレンジ(オレンジ剤)は特に毒性が強い。このため被害者支援団体などはオレンジをシンボルカラーにしている。

 ベトナム戦争当時、化学兵器の使用は1925年のジュネーブ議定書で国際的に禁じられていた。だが、枯れ葉剤が化学兵器かどうかの定義付けは、なされていなかった。米国は「人には無害」と宣伝し、兵器ではないとして使い続けた。米国の議定書批准は75年になってから。93年の化学兵器禁止条約では、前文に「戦争での除草剤の使用の禁止」の趣旨が盛り込まれた。

<ベトナム戦争と枯れ葉剤使用をめぐる動き>
1925年 ジュネーブ議定書で化学兵器の戦時使用禁止
  40年 日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐
  45年 第2次世界大戦で日本が無条件降伏し、ベトナム民主共和国が独立宣言
  46年 ベトナムとフランスの間で第1次インドシナ戦争始まる
  54年 ジュネーブ休戦協定により、ベトナムは南北に分断
  55年 南ベトナムにベトナム共和国設立。親米のゴ・ディン・ジエム初代大統領が就任
  60年 南ベトナム解放民族戦線結成。ベトナム戦争始まる
  61年 米軍がベトナム中部コントゥムで枯れ葉剤を試験散布
  63年 ゴ・ディン・ジエム大統領暗殺。ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺
  65年 米軍が北ベトナムへの爆撃開始
  67年 枯れ葉剤散布が69年にかけてピークとなる
  68年 北ベトナムと解放戦線による一斉攻撃「テト攻勢」
  69年 南ベトナム駐留米軍が最大の54万人に達する。北ベトナムのホー・チ・ミン主席死去
  71年 米軍機による枯れ葉剤の散布終了
  73年 パリ和平協定。米軍がベトナムから撤退開始。日本が北ベトナムと国交樹立
  75年 北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を陥落。ベトナム戦争終結
  76年 南北統一で、ベトナム社会主義共和国が樹立
  78年 ベトナム軍がカンボジア侵攻
  79年 中国軍がベトナム国境侵攻。中越戦争始まる
  86年 結合双生児のベトちゃん、ドクちゃん兄弟が緊急治療のため来日。ベトナム共産党がドイモイ(刷新)政策を
       採択し、市場経済を導入
  93年 化学兵器禁止条約を米国など130カ国が調印。前文に「戦争での除草剤の使用の禁止」の趣旨が盛り込
       まれる
  95年 ベトナムと米国が国交正常化
2003年 ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)が設立
  04年 VAVAの代表者たちが化学企業37社を相手に損害賠償請求を米連邦地裁に提訴。ベトナムで枯れ葉剤
       被害者の日(8月10日)制定
  09年 米連邦最高裁がVAVAの損害賠償請求を棄却
  11年 ダナン国際空港でベトナム、米国合同事業として初めてのダイオキシン除去始まる

(2012年6月19日朝刊掲載)

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