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連載・特集

ベトナム 枯れ葉剤半世紀 第1部 被害地を歩く <2> 激戦の果てに

元兵士 子に重い障害

将来への不安「みじめだ」

 ホーチミン中心部から北西約30キロのクチ。雨季前の田で、水牛が代かきをしていた。

 デルタ地帯の田園の町も、戦時中は南ベトナム解放民族戦線の一大拠点だった。森の地下に掘られた、全長200キロに及ぶアリの巣状のトンネル。作戦室も備えた地下基地に、米軍は枯れ葉剤と焼夷(しょうい)弾を降らせた。今は戦跡ツアーの外国人観光客でにぎわう。

 元解放戦線兵士レ・タン・カンさん(70)の家を訪ねた。台所片隅の板敷きのベッドに、息子のレ・バン・ロイさん(34)が、か細い体を横たえていた。生まれつきの全身まひと脳障害。弟レ・タン・ハイさん(31)も脳障害がある。3人は昨年11月、政府に枯れ葉剤被害を認定された。

戦後 ケアなく

 「着替え、食事、排せつ。私も年を取り、きつい」。カンさんの妻ボ・ティ・エムさん(67)が、ロイさんの口元にさじを運ぶ。

 兄弟は2008年、医療支援に訪れた日本の医師団の診察を受けたが、打つ手はなし。戦後、その他のケアはなかった。被害認定後、政府から3人に月計約300万ドン(1万2千円)の支援金が出るようになった。

 カンさんは1968~69年にクチで戦った。米軍はベトナム撤退を探りつつ、前線での枯れ葉作戦は激烈を極めた。毒性の高いオレンジ剤は69年、作戦中最多の1300万リットルが南ベトナム各地にまかれた。ある日、カンさんは全身に枯れ葉剤を浴び、右目を失明。その後の被弾で光を失った。

 帰還後、授かった5人のうち2人は流産と死産。3人は障害があり、うち1人は1カ月の命だった。「戦争の影響と後で知った。みじめだ」とカンさん。

 枯れ葉剤被害者協会クチ支部によると、クチの被害者は650人。大半が2世、3世だ。ただ、認定被害者はうち238人。申請後の認定待ちや汚染地域にいた証明ができないケースが多いという。

 帰り際、カンさんが歌を口ずさんだ。「私は国のため血を流し 妻は米作りに汗を流した」

 北ベトナムからラオス国境沿いを経てクチ一帯に至る解放戦線の補給路「ホーチミンルート」と、解放戦線が蜂起したベトナム最南部メコンデルタも、米軍は執拗(しつよう)に攻撃。周囲の集落も巻き込んだ。

「水は飲むな」

 メコンデルタのミトーに住むド・スアン・トゥアンさん(62)は70年、ハノイからホーチミンルートを抜け、デルタに出撃した。転戦する先々で「水は飲むな」と言われた。戦後生まれた四男ド・クウォック・タンさん(29)は水頭症だった。障害児の小学校を卒業後、外出することはない。

 自らも神経系の病を患い、政府から父子で月計約220万ドン(8800円)の支援を受ける。「戦場でダイオキシンに毒されたのか、妻が生活で摂取したのか、分からない。確かなのは、私と妻がタンの生涯に責任を負うこと。ベトナム人に何ら補償をしない米国は責任感のかけらもない」。激戦の地は、やり場のない怒りと不安が渦巻いていた。

米軍によるクチ周辺での枯れ葉剤散布
 クチやカンボジア国境の激戦地Cゾーンを含む「第3軍管区」(旧南ベトナムの面積の約6分の1)への散布は約3700万リットル。1961~71年の枯れ葉作戦でまかれた総量の約45%に当たる。

(2012年6月20日朝刊掲載)

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