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連載・特集

ベトナム 枯れ葉剤半世紀 第1部 被害地を歩く <3> 平和村の子たち

寝たきりの短い命も

ドクさん「僕が支える番」

 鉄製のベッドが壁際に並ぶ。「この部屋の子は施設に来てから外に出たことがないんです」。女性の看護師が、昼食を用意する手を休めて教えてくれた。重い障害に家庭の貧しさもあり、親が預けたり子どもを置いて姿を消したりするという。

 ベトナム南部ホーチミンにある枯れ葉剤被害者の支援施設ラン・ホア・ビン(平和村)。国内最大の産科院トゥーズー病院の一角にある。0~18歳の2世、3世の被害者を中心に60人が治療やリハビリを受けて暮らす。

 各部屋にベッドが7、8台。入り口の紙には、「両脚欠損」「無眼球症」などの症状と、名前や生誕地が書いてある。水頭症の少女ファン・ティ・フオン・カンさん(16)は、鼻にチューブを付けたまま天井を仰ぐ。郊外のカンザー地区で生まれた。戦時中、米軍が枯れ葉剤を集中投下した。

 「リハビリができる子はまだいい。寝たきりのまま短い命を終える子もいる」。リハビリ科のレ・ティ・ヒエン・ニー副科長(44)が厳しい表情で話す。

 平和村は1990年、ドイツの財団の援助で建設された。現在、国内に8カ所。子どもは病院や各地の枯れ葉剤被害者協会(VAVA)を通じて入所する。待機者は減らない。運営は病院の資金や国内外からの寄付で賄う。

高い水準続く

 トゥーズー病院での出生数は現在、年間約5万人。うち約1%に口蓋裂、水頭症などの重い身体的な障害がある。80年代の1・0~1・6%よりやや低くなったが、戦前の50年代の0・3%と比べて高いままだ。それらが原因の死産、流産も多いという。

 廊下突き当たりの資料室。胎児の遺体を保管したホルマリンの瓶約200本が並ぶ。60年代に急増した異常出産を受け、当時研修医だったグエン・ティ・ゴック・フオン元院長(68)たちが原因究明のため残した。2000年代のラベルもある。脳のない胎児、胸と胸がくっついた双子。静かに悲劇を物語る。

 平和村で、グエン・ドクさん(31)が働いていた。双子の兄ベトさん(07年に死去)と下半身がつながった状態で生まれ、88年に同院で分離手術を受けた。日本で支援運動が起きた。「今度は僕が被害者を支える」。施設の事務の傍ら、募金や講演に出掛けている。

 昨年4月、滋賀県の小学校を訪問。広島市の中学高校から同小に贈られた被爆桜2世を見た。「ベトと僕は戦争の象徴。今度は桜のように復興と平和の証しになれれば」

帰郷後に発症

 平和村は、枯れ葉剤がまかれなかったベトナム北部(旧北ベトナム)にもある。帰郷した兵士が次々とがんや皮膚病を発症。異常出産も相次いだためだ。

 ハノイでは約100人が暮らす。作業訓練室で、背中と足の骨が曲がった青年が、日本の民間団体から贈られた織機に向かっていた。「何とか自分の力で生きてほしい」とグエン・トゥ・ハー副理事長(41)。願いとは懸け離れた現実。ハーさんの瞳に涙が浮かんだ。

(2012年6月21日朝刊掲載)

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