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連載・特集

ベトナム 枯れ葉剤半世紀 第1部 被害地を歩く <5> 遠い救済

米いまだ責任認めず

被害者の多く 家族が頼り

 「米国政府に、環境破壊と人民の健康被害への責任を取るよう求める」

 ベトナム戦史に米軍の枯れ葉剤使用が刻まれてちょうど50年の2011年8月10日。グエン・ティ・ゾアン国家副主席は、ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)がハノイで開いた式典のあいさつで強調した。

 米国は「病気や障害との因果関係が不明」として、ベトナムでの枯れ葉剤被害の責任を認めていない。副主席の言葉は、終戦後30年を経ても問題が未解決である証しだった。

 ホーチミン市トゥーズー病院元院長のグエン・ティ・ゴック・フオン医師(68)は被害者救済のため、米議会で証言してきた。「散布地での異常出産の多さは、米国人も含む研究者が裏付けている。米国が責任を認めないのは『人権国家』の看板が傷つくからだ」。フオン医師は指摘する。ひとたび認めれば、巨額の国家賠償も負う。

 ベトナムや日本、欧米の多くの研究者は、戦時中から枯れ葉剤被害を告発してきた。それでも救済は進まなかった。背景には、戦後のベトナムと米国との微妙な関係がある。

経済発展を優先

 1964年に米国が北ベトナムに発動した経済制裁は、南北統一後も続いた。一方、米国を退けた後も戦下のベトナムは、国際社会で孤立。タイなど隣国に経済面で水をあけられた。86年に市場経済を導入し、米国との関係改善を急いだ。

 戦中の非人道行為にふたをする米国と、経済大国を刺激したくないベトナムの思惑。95年の国交正常化後も両国は、被害者救済を俎上(そじょう)に載せなかった。

 「病も貧しさも抱え込んできた」。南部の激戦地ベンチェー郊外に住むレ・バン・ホアイさん(67)は唇をかむ。70年ごろ、近郊の米軍基地の守備隊にいた。帰還後に生まれた5人のうち3人(現在27~39歳)は脳や身体に障害がある。3人は4年前、月計約150万ドン(6千円)の政府支援金を受け始めた。

米最高裁で棄却

 ベトナムは経済成長を背景に、2000年ごろから米国への責任追及の姿勢を強めた。03年には、枯れ葉剤を製造した米化学企業に損害賠償を求めて提訴するため、被害者や元政府関係者がVAVAを設立。代表者たちは04年に提訴したが、09年に米連邦最高裁で棄却された。「被害者支援は待ったなしなのに」。グエン・ミン・イー対外関係局長(71)は語気を強めた。

 VAVAは国内58省に支部を置き、被害者のリハビリやデイケアに取り組む。11年に北部タイビンに開設した「解毒センター」。手足のしびれや皮膚病の患者が体操やサウナ入浴を繰り返す。タイビン支部のホー・シー・ハイ副会長は「これまでに約400人が訪れ、効果を挙げている」と誇らしげだ。

 だが、被害者の大半は家族しか寄る辺はない。「やることは山積みだが、資金は乏しく、国民の関心も低い」とイー局長。救済の道のりは遠く、険しい。

ベトナムの枯れ葉剤被害者への政府支援金
 ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)によると、2000年以降に制度が整ってきた。現在、一部の元兵士とその子は障害の程度に応じ約40万~180万ドン(1600~7200円)を受ける。受給には、散布地にいたことや親族に障害が多いことを示す必要がある。民間人は対象外という。

(2012年6月23日朝刊掲載)

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