×

連載・特集

ヒロシマ音楽譜 作品が紡ぐ復興 <6> 川崎優

「哀悼歌」永遠の祈り

痛む心 30年を経て旋律

 原爆を体験した者がそれを言葉で表すことには大きな苦痛を伴う。音という抽象的な表現でもそれは同じ。川崎優(1924年~)は、被爆者としてヒロシマへの思いを音にしたごくわずかな作曲家の一人。音にするまでには30年の年月を要した。毎年の平和記念式典で献花時に演奏される「祈りの曲第1≪哀悼歌≫」。75年に完成した。

 川崎が被爆したのは西観音町(広島市西区)の親戚宅。学徒動員で陸軍の船舶兵となるが肺を患い、療養のために身を寄せていた。建物は倒壊し、瀕死(ひんし)の重傷を負った。半年後には東京音楽学校(現東京芸術大)に復学したが、下痢や目まいに悩まされ続けた。被爆時に負った耳下のケロイドが完治したのは2005年。肩には今も傷痕が残る。

 川崎に対するインタビューの中で、表情が険しくなる瞬間があることに気づいた。死者への思いを語る時だ。原爆の前日、八幡村(佐伯区)に疎開していた2人の幼いいとこを母親に会わせたいと、自ら広島市内に連れ帰っていた。2人とその母親は被爆死。母親に抱かれたまま2人は亡くなっていた。死者にかけられる言葉は今もない。祈りのみだという。

 被爆から20年たったころ、原爆をテーマにした曲の依頼を受けるが固く拒否した。五線紙に向き合うまでにさらに10年、ようやく「哀悼歌」が生まれた。慰霊碑前での作品献呈式では自ら指揮したが、ただ、涙だけが流れ続けた。

 その後、「祈りの曲」を連作することはライフワークとなった。昨年には、「これが最後」という「祈りの曲第7≪いく星霜すぎるとも≫」を書く。自作の詩の朗読を主体に、フルートとピアノを伴う作品。「不運の被爆者に、衷心よりのご冥福をお祈りしましょう」。人生で初めて書いた詩は、祈りに満ちていた。

 後半ではピアノの和音が静かに繰り返される。献花から8時15分に向け、「哀悼歌」の末尾で繰り返される祈りの鐘を思う。復興は果たしても変わらない。原爆犠牲者に対する祈りの音が鳴りやむことは、永遠にないだろう。(広島大特任助教・能登原由美)

(2012年6月23日朝刊掲載)

年別アーカイブ