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連載・特集

復興の風 1952年 元安川 爆心地の川面 笑顔再び

泳ぐ子の足元に焼けた瓦

 原爆投下から67年。広島の街は廃虚からの復興を経て、国際平和文化都市として歩む。被爆で深い傷を負った人や、親やきょうだいを失った人…。悲しみを抱えながら、明日へのつち音を響かせた。その姿は、東日本大震災と福島第1原発事故に遭った被災者と重なる。復興がキーワードとなるいま、被爆地の歩みをあらためて写真で追う。

 原爆ドームそばを流れる元安川に子どもの歓声が響く。撮影は原爆投下から7年後。日本が占領下から主権を回復した年でもある。

 広島市中区の袋町小の向かいで、祖父の代から家紋加工店を営む藤本芳彦さん(69)は「学校から帰るとかばんを放り出し、水泳パンツのまま川へと駆け出した」と懐かしむ。

 爆心直下の細工町、横町(現大手町1丁目)一帯はバラックが並んでいた。水を求めて多くの人が飛び込み息絶えた川面は、子どもたちの屈託のない笑顔を映し始めていた。

 元安川は袋町小の児童にとって、夏場の格好の遊び場だった。元安橋や雁木(がんぎ)から飛び込み、流されないよう石を持って対岸に渡る。足元には、熱線で焼けた瓦やがれきが転がっていた。

 藤本さん一家は地御前(廿日市市)に疎開していて被爆を免れたが、店や周りの家々は跡形もなくなった。父は焼け残った木を拾ってバラックを建て店を再開した。「子どもは遊ぶのに一生懸命よ。物資も食料も乏しかったが、つらさは感じなかったなあ」と振り返る。

 藤本さんの同級生で近くのボーイスカウト広島県連盟理事長、酒井幸雄さん(69)は、ケロイドが残る子と泳いだ記憶もある。「当時は当たり前。あえて尋ねもしなかった」。悲惨な思い出が傷に刻まれていることは、子ども心に察していた。

 復興が進むにつれ、1950年代後半から市内の小学校にプールが設置され始めた。66年までに市内の川は遊泳禁止に。被爆を挟んで続いた川遊びの光景は見られなくなった。

 藤本さんは母に付き添い、8月6日には原爆で亡くなった親戚の供養のため一緒に灯籠を流し続けた。その母も7年前に逝き、街並みも変わった。被爆者のうめきや子どもの歓声を聞いた川はいまも流れている。(野田華奈子)


 原爆投下後から1950年代までに、広島市内で撮影した、復興の息吹が感じられる写真を募集しています。一部は本連載「復興の風」や関連特集、中国新聞社ホームページなどで紹介します。中国新聞社報道部「復興の風」係までご連絡ください。Tel082(236)2323。

(2012年6月27日朝刊掲載)

復興の風 1950年 紙屋町交差点 焼け跡 活況運んだ電車

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