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連載・特集

『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <2> 「非国民」の子

「戦争は間違い」父訴え

 6人きょうだいの三男として舟入本町(現広島市中区)で生まれた1939年は、日中戦争の最中。生活にも戦争が影を落としていた

 家業は塗装業だったけど、おやじは日本画の絵描き。絵描きなんて貧乏の代名詞みたいなもんで、台所はいつも火の車だったね。

 とにかく飢えて飢えて。当時は生米がうまかった。米びつに入ってるのを、一握り。隠れてね。弟にも分けてやるの。2人して「おいしいな」言うて食べよった。もちろんおふくろも気づいてただろうけど。

 父親には「俳優」という別の顔もあった

 日本画と蒔絵(まきえ)の修業で京都へ行った時に、演劇に関わるようになったらしい。しかも左翼系の劇団。

 一番恐怖を感じたのは、おやじが特高警察に連れて行かれた時。おふくろが髪を振り乱して、わなわな震えてる。異様なことが起きたなと感じた。以来、帰ってこないのよ。おふくろに「お父ちゃんはどうしたんだ」と聞くと「兵隊になるために徴兵検査に行った」って言う。劇団員全員がつかまったらしい。県庁の拘置所に1年以上入れられていた。戻ってきた時、衰弱しきって、茶わんも箸も持てんようになっとったね。

 父親は家でもはっきり反戦を唱えていた

 食事の時、丸いお膳にきょうだい全員が正座させられて、必ず説教を聞かされるの。いつも言ってたのが「この戦争は間違っている。絶対に日本は負ける…」。僕が成人したころにはパンもうどんも白い米の飯も腹いっぱい食べられる良い時代が必ず来る、って。おかげで、子ども心にも「日本はとんでもないことをやっている」という意識があったね。

 町内会長が毎日のように家に来るの、「ごめん」って。2階のおやじの仕事場に上がっていって、しばらくすると、だだだだだ、と階段を下りてくる。おやじが追いかけて、そのまま路上でケンカしていた。町内会長は、非国民がいると当局に知られると大ごとになるから来ていたわけ。言論の抹殺ですよ。

 堅物のおやじだったけど、ものすごい子煩悩でね。僕を呼んで抱っこして、濃くなったひげの頬で、僕の頬をごりごりやってたね。

(2012年7月4日朝刊掲載)

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