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連載・特集

『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <7> 就職

昼は看板 夜は家で漫画

  江波中(現広島市中区)を卒業した後、看板業者に就職した

 高校に進学したかったけど、朝から晩まで真っ黒になって働いてるおふくろを見ると、「学費を出してくれ」と言えなかった。わが家を楽にするために就職しよう、とね。

 たまたま、中村工社って看板屋から中学校に求人が来ていた。ひょこっと見て、「絵が描けるじゃないか!」と。ここに入ればデッサンが基礎から教えてもらえるし、色彩関係やレタリングも勉強できる。絵も描ける。全て漫画に必要なものだったから、すぐに決めた。

 入ったら、徒弟関係が厳しくてね。殴られて覚えさせられる世界。一緒に入った同僚なんて頭にペンキを付けられて、はけで殴られて、看板の裏で泣いてたよ。僕はぴしーっとやるから殴られんかった。水が合ってたんでしょう。

 体力勝負の仕事だった

 大きな看板にへばりついて描くんだから。20メートルくらいの高さでの仕事は当たり前だった。一番怖い思いをしたのは、徳山(現周南市)にあった出光興産のタンクにアポロの絵のマークを描く仕事。今みたいに足場なんてない。上からぶら下がって描くんだから、風が吹くとゆうらゆうら揺れる。命懸けよ。肝が冷えた。

 でも、完成した後、地上に降りて、ゆったり自分の作品を見上げる時が、一番うれしかったね。「間違いないな」と。前の広島市民球場の看板も描いたよ。楽しかったねえ。いい職業に導かれた。鉄工所かどっかに入っていたら、今の僕はない。

 夜になると、家で漫画を描き続けた

 画用紙に「今日は何ページまで描きたい」と、こつこつと夜の12時までやってた。それ以上やると、次の日の仕事ができないから。でも、漫画を描いている時は楽しかったから、ついつい12時をすぎてしまう。「こりゃ、また明日大変だ。寝とかなくちゃ」って慌てて寝てた。

 おふくろは「絵では飯が食えない」と反対してた。おやじが絵描きで貧乏生活でしょ。嫌というほど知ってたから。でも俺は「絶対、漫画家になる」ってやってた。

(2012年7月13日朝刊掲載)

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