×

連載・特集

揺らぐ核の火 第1部 被爆者のまなざし <1> 語り始める

「原爆と同じ 人を苦しめる」

原発再稼働に心痛

 人類は核と共存できるのか―。福島第1原発事故が突き付けた問いの答えを見いだせないまま、福井県の大飯原発3号機は再稼働した。広島への原爆投下から67年。核被害の恐ろしさを知る被爆者たちを通して、再びともり、そして揺らぐ「核の火」を見つめる。

 被爆した生家跡には長年、足が向かなかった。「思い出したくなかった」。田中繁さん(74)=広島市西区=はかつて自宅があった南区大州で、そばを流れる猿猴川の川面を眺めた。

 記憶を閉じ込めてきた。しかし、ことしの8月6日に開かれる集会で被爆体験を語ることを決めた。その背を押したのは、放射性物質をまき散らした原発事故と、再稼働問題だった。

 被爆後、両親や妹2人と一緒に、呉市に住んでいた兄の家に転がり込んだ。悲しい言葉を聞いたのは小学校に転入した直後。「あいつはピカに遭うとる。うつるから遊ぶな」

 妻の家族に結婚を反対され、2人で広島を離れた。子どもをつくるのも諦めた。転職も強いられた。38歳で白内障を患った。病におびえながらも50代になるまで被爆者健康手帳を取得しようとはしなかった。「妻のため」と定年を機に広島に戻った。

 証言するのは今回で2回目。3年前の夏、知人の求めに応じ、中学生や教師たちに語った。胸がうずき、何度も言葉が詰まった。「二度と語るまい」と決めたはずだった。

 「福島の被災者が差別を受けた」。そんなニュースに接するたび、怒りが込み上げた。再稼働を容認する声に疑問が湧いた。「原爆も原発も人を苦しめる。原発を減らしていくべきだ。福島が何も解決していないのに再稼働は早すぎる」

 広島の被爆者団体は脱原発を明確に唱え始めた。被爆者7団体は4日、8月6日の平和記念式典に参列する政府関係者に脱原発を求めることを決めた。1976年に始まった政府要望の場で、7団体がそろって脱原発を訴えるのは初めて。核の「平和利用」をめぐる考え方の違いから踏み込むのを避けてきた。

 一方で、「ヒロシマとフクシマを同列で語らないでほしい」との思いを抱く被爆者もいる。広島県被団協の坪井直理事長(87)は何度かそんな声を聞いた。「被爆者は瞬時に大量の放射線や熱線を浴び、多くの命を目前で奪われた。つらかった思いがそう言わせるんだろう」と推し量る。

 原爆と原発―。被爆地もまた、核兵器と核の平和利用を切り離して考えてきた。

 放射線被害という同じ痛みを知るヒロシマは今こそ、フクシマに寄り添うべきだ、と坪井理事長は言う。「そのために私たちが、核の平和利用の議論に正面から向き合う腹を固めないといけない」

 原発事故で被害を受けた福島の人々に自らを重ねる被爆者たち。自問しながら、語り始めようとしている。(田中美千子)

(2012年7月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ