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連載・特集

揺らぐ核の火 第1部 被爆者のまなざし <2> 被災地から

「がれきの山 復興まだ先」

拭えぬ「風化」の不安

 5メートルほどの高さに野積みされたがれきの山が、数百メートルにわたって続く。家の一部だったであろう廃材や漁具、布団や衣類などの日用品…。津波で人々の生活が奪われたことを物語る。泥にまみれたがれきを分別する重機がエンジンをうならせる。風向きが変わると臭いが鼻を突いた。

 東日本大震災で発生したがれきの仮置き場の一つ、宮城県石巻市の石巻工業港。「まだこんなに…」。同市に暮らす林吉男さん(86)がつぶやいた。傍らで木村緋紗子さん(75)=仙台市太白区=が言葉を継いだ。「復興なんてまだまだ」と。

 2人は広島で被爆した。木村さんは宮城県原爆被害者の会事務局長。震災後、定期的に会員約180人の近況を尋ねて回る。この日も、前副会長の林さんを自宅に見舞った。

 同港一帯は住宅や工場が津波で流された。林さん宅はそこから車で5分ほどの場所にある。市内22カ所の仮置き場にある膨大ながれきを見ないようにしてきた。「誰も津波を思い出したくない。がれきがなくならないと私らは前に進めない」

 震災から1年4カ月。被災地のがれき処理が進まない。環境省によると岩手、宮城、福島の3県で出たがれきは推計1880万トン。処理できた量はことし6月末現在、全体の2割にとどまる。

 政府が全国の自治体に要請する岩手、宮城両県のがれきの受け入れを、福島第1原発事故で放出された放射性物質が阻む。政府が安全性を繰り返しても、受け入れる側の住民の不安は消えない。

 被爆地の広島市議会は3月、がれき受け入れを表明するよう決議した。一方で市は4月、受け入れ要請に対する政府への回答で可否を示さなかった。「放射性物質への不安の払拭(ふっしょく)は必ずしも納得できる状況にない」のが理由だ。

 それが現実だ、と木村さんは言う。南区大須賀町で被爆。これまでに8度の手術を経験した。「放射線の怖さは私たちが誰より知っている。自分が被災地以外にいたら受け入れに手を挙げられない」と打ち明けた。「被災地にいる身として心苦しい」と続けた。

 5月5日、原発事故後に初めて国内の商業用原発全50基が止まった。が、関西電力大飯原発3号機(福井県おおい町)の再稼働で「原発ゼロ」は約2カ月で終わった。林さんにはそれが「風化」の始まりと映る。原因が未解明な上、安全対策もがれきの処理も不十分なままなのに。

 暁部隊(陸軍船舶司令部)の皆実町(広島市南区)の兵舎で被爆した林さん。定年後、「あの日」が風化しないよう宮城県内で被爆体験を語り続けてきた。「原発事故で苦しんでいる人がいることは決して忘れてはいけない」。放射性物質に今も翻弄(ほんろう)される被災地から訴える。(胡子洋)

(2012年7月17日朝刊掲載)

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