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連載・特集

『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <8> 東京へ

投稿作入選 母も認める

 漫画家になる夢を母親が認めた

 看板屋で働きながら、17、18歳のころ雑誌に投稿した作品が入選した。16ページの読み切りで「地獄剣」っていう時代物。雑誌に「広島市・中沢啓治」って載って、2千円だったか原稿料ももらった。うれしかったねえ。これでおふくろも根負けして「やりたいことをやれ」って。認めたんだと思うよ。

 1961年2月、21歳で東京に出た

 その年の正月休みに、「早撃ちサム」っていう西部劇の原稿持って、東京の出版社に行った。「冒険王」って、一流の雑誌をやってるところに。担当の編集者に漫画家として脈があるか聞いてみた。そしたら「このままだったら上達しない。アシスタントになったらどうだ」って紹介してくれた。広島じゃなくて、東京に出んといけん、と将来が固まった。

 看板屋を辞める時に、「就職支度金」を3万円もらった。これに手を付けたら、東京を逃げ出すしか道がない、って大事に大事にしたよ。

 東京では、アシスタントと自分自身の作品づくりに明け暮れた

 アシスタントは、徹夜までやって1日千円。月刊誌だから月のうち15日はアシスタントして、残り15日はまとめて休みが取れる。3畳一間のアパートに小さい机と画板を買ってきて朝早くから夜遅くまで描いた。

 夏になると暑いのなんの、って。原稿用紙がべちょべちょになるから、近くの喫茶店に行って、コーヒー1杯で朝から晩まで粘ってた。そこのママさんは、何も言わずに認めてくれてた。

 住んでた台東区の谷中って所は下町の人情があったし、東京芸術大のある所だから、いっぱい絵描きとかもいて、芸事におおらかで。地元が育ててくれた。

 63年6月、東京に出て2年半足らずでデビューした

 あのころは、みんな原稿持ち込み。編集部に乗り込んでいく。とんとん拍子に話が進んで、「少年画報」って雑誌に「スパーク1」って作品でデビューした。レースカーと産業スパイの漫画。うれしかったね。でも、連載は1年で終わった。技量が高くなかったんでしょう。

(2012年7月17日朝刊掲載)

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