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連載・特集

揺らぐ核の火 第1部 被爆者のまなざし <4> 立地への思い

「潤ったといえる実感はない」

原発マネー 心複雑

 「地域に仕事は常にあったから、『あめ』をもらってきたと言われても仕方ない」。中国電力島根原子力発電所(松江市鹿島町)から南に約8キロ。松江市浜佐田町で建設会社を営む松浦広昭さん(63)は苦笑いした。

 大阪から古里に戻り、2号機が営業運転を始めた1989年に建設会社を起こした。2号機の水道管や避雷針などの設置、3号機を建設する工事関係者の宿舎整備など下請け工事を手掛けた。恩恵は一定に受けたが「大きな仕事は大手がさらう。潤ったといえるほどの実感はない」。

 松浦さんは松江市被爆2世の会(約80人)の会長でもある。暁部隊(陸軍船舶司令部)に属し、広島市中区東千田町で被爆した父は11年前、75歳で亡くなった。「父の体験とその後の苦労を引き継ぎたかった」。会を設立し5年目になる。

 大量の放射性物質をまき散らした福島第1原発事故。周辺の住民は家や田畑を残したまま、生まれ育った町に入ることもできない。全国で唯一、県都に立つ島根原発に置き換えて想像する。「原発に絶対安全なんてない」との思いを強める。

 脱原発を鮮明にする被爆2世団体もある。だがそんな思いを仲間と共有しづらい。何らかの形で原発に関わる人が多いからだ。松江市中心部で開催された「ヒロシマ原爆展」に連れだった会員の漁業青山喜一さん(62)=同市朝酌町=は言う。「いまさら手のひらを返すようなことはできないよ」

 原発立地によって松江市が国から受けた電源三法交付金は本年度までに計621億円。道路や下水道、地域を巡るバス運行の経費などに充ててきた。

 だが、原発のある鹿島町の人口は1990年に9216人だったのが20年後、7761人と15・8%も減った。福島の事故を機に「原発は制御できる」という過信は崩れ、地元に地域振興の名目で投入された原発マネーに厳しい視線が向く。

 島根原発から南西に約210キロ。中電が原発新設を計画する山口県上関町は、穏やかな瀬戸内海に囲まれた半島にある。町が誘致を表明し、30年。国策に町は揺れ続ける。

 「この海を奪われたら何も残らんのに」。計画が浮上して以来、上関町で生まれ育った尾崎好子さん(84)は反対してきた。町内で数少ない被爆者の一人。17歳の時、疎開先の富山県から地元に一時帰宅する途中に広島に入り、被爆した。差別や偏見を恐れた。両親には他界するまで被爆を告げずじまいだった。

 「被爆者だから反対するんじゃない」と繰り返す。賛否をめぐる住民の対立を生み出す原発が嫌だという。関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働に思う。「国はまた原発に頼り始めるのでは。安全や人の命をなおざりにしている」

 12日告示された山口県知事選。計画の行方は新たなリーダーの判断に委ねられる。(加納亜弥)

(2012年7月19日朝刊掲載)

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