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連載・特集

揺らぐ核の火 第1部 被爆者のまなざし <5> 「原発銀座」

「こんな騒ぎでも再稼働」

不安な心 置き去り

 雨の中、「再稼働反対」の声が続いた。国内で原発が再び動きだした今月1日。関西電力大飯原発(福井県おおい町)のゲート前を、3号機の再稼働に反対する市民グループが車や鎖のバリケードで封鎖し、福井県警機動隊と対峙(たいじ)した。

 「こんな騒ぎになっても再稼働するんですな」。隣町の福井県高浜町に住む藤内利直さん(90)は、自宅のテレビでその様子を見守った。

 若狭湾に15基の原発が立ち「原発銀座」と呼ばれる福井県。海沿いにある藤内さん宅は同高浜原発から南東約5キロ、大飯原発から南西約12キロにある。高浜原発1号機は1974年、大飯原発1号機は79年に運転を始めた。

 「自慢の海に人が来なくなる」。高浜原発建設時の住民説明会で異を唱えた。が、「町が潤う」との歓迎ムードに口をつぐんだ。その後、原発の建設ラッシュが始まる。

 67年前の夏。召集先の宇品(広島市南区)で停泊中の船上で被爆した。救護所で苦しみ、息絶える多くの人を目の当たりにした。「自分もいつ死んでもおかしくない、と思い生きてきた」

 古里に戻り、製材会社や造園会社に勤めた。自分を苦しめた原爆と原発は同じ核。その危険性を押し付けられた―との思いは引きずってきた。

 大飯原発の再稼働をめぐり、反対を訴える輪に地元住民の姿は見えない。「町は原発に頼らない生き方ができたのかもしれん。もう遅いんでしょうが」。4号機も18日夜、原子炉を再起動した。

 9日にフル稼働した3号機。翌10日、福島第1原発から南に約40キロ、福島県いわき市に1人で暮らす徳永真弓さん(73)は「事故の責任を誰も取ってないのに」と顔を曇らせた。

 通帳の束を取り出した。毎年10月、「原子力給付金」の名目で4056円が振り込まれていた。事故後の昨年も。原発周辺の自治体などに支払われる国の電源立地地域対策交付金が元手。「事故が起きても何も言うなってことのように思えて」

 昨年3月の原発事故の影響で、福島県では今も約16万人が避難生活を送る。いわき市では近所も含め約7800人が市外に移った。

 徳永さんは「目に見えない放射線におびえ、避難した人の気持ちは分かる」と言う。自身は「慣れ親しんだ土地を二度と離れたくない」と残った。

 広島市中区舟入町で生まれた。爆心地から約2キロの自宅近くで被爆。母は勤労奉仕先で被爆死した。父はフィリピン沖で戦死した。

 孤児となり終戦後、いわき市の母方の祖父の家に引き取られた。結婚はせず、飲食店を営んで生計を立てた。

 「原爆も原発も、家族と古里を引き裂いた」。徳永さんは被爆体験をフクシマの今に重ね、「核の火」を見つめる。(田中美千子、胡子洋)=第1部おわり

(2012年7月20日朝刊掲載)

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