×

連載・特集

復興の風 1959年 基町 肩寄せ合う「原爆スラム」

 バラックが建て込む本川沿いの土手。相生橋(広島市中区)から上流へ約1・5キロにわたって不法建築群が広がる。

 「原爆スラム」。復興が急速に進む周囲からは取り残されたような光景を、当時の人々はそう呼んだ。写真提供者の浅沼秀行さん(83)=呉市=も「戦後の明暗を対比させて撮った」と説明する。

 原爆で家を失った人たちが、市の公園用地にバラックを建てた。1960年ごろには約900戸がひしめいた。

 当時の住人によると、小屋は川岸に漂着した流木を組み合わせた。上下水道はなく、冬場は家族が身を寄せ合って隙間風に耐えた。市発行の「広島新史 都市文化編」では「戦後の広島の都市問題が集積した地区」と記載される。

 中区の平田文子さん(77)は21歳だった56年秋、先住者からバラックを4万円で買った。原爆で焼け出され、身を寄せた実家の長屋も手狭になったからだ。

 夫は建設現場で働き、幼い子ども4人を育てた。しかし、原爆に財産の全てを焼かれたダメージは大きく、生活の再建はなかなか進まなかった。

 仮住まいの厳しさを和らげてくれたのは住民同士の思いやりだった。平田さんは「近所に病人が出たら、生活費をカンパしたりして、絆は強かった」と懐かしむ。

 67年の大火で一帯の149戸が焼かれた。平田さん一家は市の仮設住宅を経て、71年に県営の高層住宅に入居。バラック群は77年秋に姿を消した。

 東日本大震災の被災地ではいまも、約11万5千人が仮設住宅で暮らす。「住民は絆を必要としているはず。全国から温かい支援を続けてほしい」と平田さん。わが身を重ね合わせて避難者にエールを送る。「『いつか、きっと』の気持ちを持ち続けて」(門脇正樹)

(2012年7月20日朝刊掲載)

年別アーカイブ