×

ニュース

日本画家 故高増径草さん 被爆初期の広島をスケッチ 遺族が原爆資料館に18点すべてを寄贈

■編集委員 西本雅実

 原爆で壊滅した広島の惨状を1カ月後に描いた日本画家高増径草さん(本名啓蔵、1985年に84歳で死去)の原画18点が11日、遺族から市の原爆資料館に贈られた。45年9月9日に描き、残留放射能の有無を調べるため前日に広島入りした米マンハッタン管区調査団が撮った写真にスケッチする姿が収められている最も初期の「原爆の絵」だ。

 原画を保存していたのは、千葉市緑区に住む長男の文雄さん(72)。日本画家で日展会員でもある妹の暁子さん(66)=千葉県富津市=がこの日から広島市中区のそごう広島店で個展を開いたのを機に、中区在住の姉の田丸歌子さん(75)との三人で資料館を訪れ、父が「原爆スケッチ画」と記して残した原画を前田耕一郎館長に手渡した。

 父啓蔵さんは、東京・銀座の生まれで幼いころ聴覚を失ったが日本画を学び、25歳のころ旧県立広島ろう学校(中区)の美術教諭として赴任。第2次大戦末期の45年4月、ろう学校も約45キロ北東の吉田町(現安芸高田市)に疎開を命じられたため子どもらを連れて移った。

 原画は、山越しに見えた巨大な原子雲を当日に鉛筆で描いた1点をはじめ、1カ月後の9月9日に文雄さんを「通訳」として伴い再び市中心部に入り、八丁堀や中島本通り(現平和記念公園)、大手町筋など爆心地一帯の惨状を、ザラ紙に墨とクレパスで描いた17点からなる。その際に米軍に写真に撮られた。

 文雄さんは「米兵に見つかったときは怖かった」と廃虚での記憶をたどりながら、「父が描き残さなくてはと筆をとった絵を、父の願いをかなえて画家となった妹が広島で個展をするのを機会に被爆地で保存し、多くの人に見てもらいたい」と寄贈の思いを語った。

 きょうだい3人は「父の分身を託した気がします」と話し、前田館長は「被爆直後に彩色もされた絵からは原爆のにおいが立ち込めるようだ」と受け止め、貴重な「原爆の絵」の保存と活用を約束していた。

年別アーカイブ