×

連載・特集

ベトナム 枯れ葉剤半世紀 第3部 解決への道 <4> 草の根交流

救済活動の輪広がる

協会との連携や催し参加

 原爆の日が近づく7月半ば。広島市中区の平和記念公園に、ベトナムと関わり続ける3人の姿があった。

 「ぜひ役立ててほしい」。被爆2世の大中伸一さん(62)=中区=が、広島ベトナム平和友好協会(HVPF)専務理事の赤木達男さん(60)=東広島市=に、原爆ドームの写真を託した。満開の桜を写し込んだ1枚。HVPFが支援する枯れ葉剤被害者の子どもが縫う刺しゅうのモチーフにしてもらうためだ。

 大中さんは約10年前、核兵器廃絶に取り組むベトナムの平和団体を自宅に招いた。交流を続ける中、枯れ葉剤被害の実態を知ったのは昨年春だ。ホーチミンにある支援施設ラン・ホア・ビン(平和村)を訪れた。子どもたちの静かな苦しみ。被爆者の姿が重なり、胸が詰まった。今年2月、被害児を再訪した。

訪問団受け入れ

 この夏も訪問団を受け入れる。「枯れ葉剤被害に対し何ができるのか聞いてみたい」

 広島ベトナム協会の林辰也会長(72)は8月、会員3人と訪越する。「戦争で傷ついた人を放っておけない」。ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)のホーチミン支部を初めて訪ねて、支援金を届けるつもりだ。

 林さんは日本占領下のフィリピンで生まれた。空襲におびえた幼少期、敗戦後の米軍収容所暮らし、引き揚げ後の貧しさ―。戦争の苦渋はしみている。広島で暮らすベトナム戦による孤児に出会い、支えた。今も家族ぐるみの付き合いという。

 被害者支援に力を注ぐ人は、淡路島(兵庫県)にもいる。元高校教諭の西村洋一さん(69)。環境問題に取り組む中、ダイオキシン汚染に関心を持った。2001年に平和村を初めて訪問。定年後の04年から約3年半、平和村の子たちにボランティアで日本語などを教えた。生まれつき両脚の膝下がない女の子が高校に合格し、わがこと以上に喜んだ。

 だが、施設にさえ通えぬ子どもたちの多さを知った。重い障害を抱え、粗末なベッドに横たわる子たち。全国各地を歩き「誰かに伝えなければ」とシャッターを切った。撮影した写真を09年、一冊にまとめて出版した。

 今夏、HVPFの赤木さんと知り合った。「できることは違うが、同じ思いを持つ人の存在に励まされる」

映画で傷痕追う

 昨年の「枯れ葉剤使用50年」をきっかけに、新たな動きも見られる。ベトナム帰還米兵の夫を9年前に亡くした映画監督坂田雅子さん(64)=群馬県みなかみ町=は昨年、枯れ葉剤の傷痕を追う自身2本目のドキュメンタリー「沈黙の春を生きて」を完成させた。

 ベトナムの「枯れ葉剤被害者の日」の8月10日には、市民団体などが昨年に続いて東京で、救済を訴えるベトナムダイオキシンデーを開く。パネリストとして参加する坂田さんは「さまざまな背景を抱える被害者や支援者たちとつながることができた」と未来への光を感じている。

 関心を持ち続け、人と人とのつながりを強めることが被害者救済の原動力となる。そして化学兵器使用の愚かさを訴え、廃絶の決意を次世代へ受け継がなければならない。(教蓮孝匡)=おわり

(2012年7月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ