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連載・特集

『生きて』 漫画「はだしのゲン」の作者 中沢啓治さん <12> 「ゲン」誕生

「ありのまま描く」決心

 1973年6月、「はだしのゲン」の連載がスタートした

 僕の分身「中岡元(なかおか・げん)」はね、元気の元、元素の元、人間の元素となるように名付けた。僕が原爆に遭ったのは小学1年だったけど、年が少なすぎるのではないか、ってことでゲンは2年生にした。

 そして、それまでページの関係で描けてなかった戦前の部分ね、自由な言論や行動が抑圧されていく、日本の暗い恐怖政治のところも描こう、と。

 連載を始める時に、今までの自分の原爆に対する抵抗感を克服できた、というか、決心がついたのよ。徹底的にやろうって。そうすれば、これからいろんな「邪魔」が入るだろうということで、女房には「めったな人を入り口に簡単に入れるな。電話も手紙も来るだろうが、気にするな。俺はありのままを描くからな」と言って、始めた。

 でも、反対意見は一切なかった。驚いた。「あれは本当なんですね」「知りませんでした」「もっともっと真実を教えてください」。そういう手紙が圧倒的に多かった。

 ただ、「残酷過ぎる」とか「気持ち悪い」とかの手紙が来たから、だいぶん表現を薄めた。自分としては不本意だけど、読んでもらえなかったら何のために描いているか意味がなくなるから、かなり表現を甘くした。

 週刊誌の連載は、妻ミサヨさんの手助けが大きかった

 女房は「門前の小僧 習わぬ経を読む」というか、僕が毎日毎日、徹夜で苦しんでる姿を見ると、何か手伝おう、と思ってくれたんでしょう。初めは、消しゴムで消したり、ホワイトで修正してくれたりしてくれた。次、下描きに「ペン入れをしてみろ」ってさせたら、うまい。「これだったらいけるわ」と。早かったよ。半年くらいでやるようになった。

 アシスタントはいたんだけど、頭数だけそろって、何の役にも立たんのよ。才能がなかった。「辞めろ」と辞めさせた。女房の方がよっぱどいい。身内だから、いくらでも好きなこと言えるしね。女房も好きじゃったんじゃないかね。子育てしながら、よう頑張った。なくてはならん「アシスタント」ですよ。

(2012年7月21日朝刊掲載)

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