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連載・特集

世界遺産を訪ねて 原爆ドーム(広島市中区)

鉄骨に映る核の残虐さ

 かつて楕円(だえん)形の屋根を形作った鉄骨たち。真夏の太陽をすっぽり包み、れんがの壁にゆがんだ影を落とす。7月の原爆ドーム。人類史上初の核兵器被害に遭ったヒロシマの象徴だ。核の残虐と、それに耐え抜いた力強さがそこにある。

 1945年8月6日午前8時15分。ウラン型核爆弾「リトルボーイ」は、ドーム南東約160メートル、地上600メートルでさく裂した。強烈な爆風と熱線が広島市中心部を破壊し、同年12月末までに推計13万~15万人が命を落とした。

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 ドームを熱心にビデオ撮影する旅行者がいた。米国アイオワ州でパン店を営むメグ・コーナーさん(30)。広島を訪れるのは初めて。「ここで空を見上げていると、何か落ちてきそうな錯覚に襲われる。強いメッセージを感じる」と息をのむ。

 夫のカイルさん(34)も「やったのは私たちの国。『戦争の結果』という言葉では片付けられない」と同調。ドーム周囲のビル群を指し「すばらしい、というより、信じられない復興だ」と続けた。

 原爆ドームは15年、広島県物産陳列館として完成。被爆時は県産業奨励館と名前を変えていた。鉄筋とれんが造りの一部5階建て。館内では品評会や展覧会が開かれた。館内のらせん階段と噴水がある庭は、子どもたちの格好の遊び場だった。噴水はいまも、7本の石柱となって残る。

 路面電車が走る通り沿いのベンチで、女性が休んでいた。米田吉子さん(76)=広島市中区。原爆で母、兄姉、祖母の4人を失った。自らも家族を捜そうと疎開先から戻り、2日後に入市被爆した。

 8歳のころ、家族と一緒に産業奨励館を訪れたという。「きれいな本がいっぱいで、図書館みたいでした。らせん階段も珍しくて、一番上まで駆け上がりました」。幸せな思い出は、亡き母や兄、姉たちの姿とともに、米田さんの胸に刻まれる。

 いまは、市シルバー人材センターの仕事で週2回、原爆ドームがある平和記念公園内を清掃する。「この地をきれいにすることが、家族だけでなく、亡くなった多くの方の供養になる」

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 噴水で親しまれる「祈りの泉」を背に、公園の南端からドームを望む。原爆資料館と原爆慰霊碑が一直線上に見える。後に世界に名をはせた建築家丹下健三(1913~2005年)が、公園を設計する際に織り込んだアイデアだ。「平和都市のコアとして、世界から集まる人が祈りをささげる場としたい」。そんな思いがこもる。

 その意図通り、ここで毎年8月6日、平和記念式典が営まれる。噴水の水しぶきが風に舞い、ほてった肌を冷ましてくれる。ことしも「あの日」がやって来る。

孤児の夢託す紙飛行機

 平和記念公園で原爆ドームや慰霊碑を無料ガイドする「ヒロシマ・ピース・ボランティア」。その一人、被爆者の川本省三さん(78)=広島市西区=は7年前から、修学旅行や平和学習で訪れた子どもたちに、折り鶴を乗せた紙飛行機を配り続ける。原爆で死んだ母サツキさん=当時(39)=が折り方を教えてくれた飛行機だ。

 11歳で原爆に遭い、両親ときょうだい4人を失った。国鉄広島駅近くで、鉄くずやたばこの吸い殻集めもした。必死で生きた。23歳で結婚の機会があったが、相手の親は猛反対した。「あんたは被爆者。長くは生きれんのじゃろ?」。家庭を持つのを諦めた。

 ガイドを始めたのは2005年。前年に初めて訪れた原爆資料館に、原爆孤児の資料がほとんどなかったのがきっかけだ。伝える使命感に突き動かされた。

 原爆で命を落とした仲間たちがいた。悲しみの中で空を仰いだ孤児たちがいた。そんな子どもたちの姿と母の思い出を重ね合わせ、川本さんは今日も紙飛行機を折る。「あの子たちの代わりに羽ばたいて」。そんな思いを込めながら。

 ピース・ボランティアは現在、85~21歳の197人。うち34人は被爆者だ。ガイドの予約は年末年始を除く毎日午前9時~午後5時、原爆資料館で受け付けている。啓発課Tel082(541)5544。

遺産メモ

原爆ドーム
 原爆の投下目標となった相生橋のたもとにあり、被爆時に中にいた30人全員が即死したとされる。被爆50年の1995年6月に国史跡となり、翌96年12月に世界遺産(文化遺産)登録。広島市は67、89、2002年の3回、保存工事をした。

≪アクセス≫
JR広島駅から路面電車で約15分。広島バスセンターから徒歩約5分。原爆ドーム近くの川岸から、広島県内のもう一つの世界遺産(文化遺産)、厳島神社(廿日市市宮島町)近くの桟橋まで約50分で結ぶ船便が、1日最大12往復する。

文・門脇正樹、写真・荒木肇=中国新聞

(2012年7月22日朝刊掲載)

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