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連載・特集

3.11以後 復興と表現 第3部 明日につなぐ <3> 作曲家 諸井誠さん

未来志向 五線譜に乗せ

 海を見渡せる高台にある体育館で、小学生約600人の朗らかな歌声が響いた。

 東日本大震災で津波が押し寄せ、大きな被害を受けた茨城県大洗町。二つの小学校の統合で生まれた町立大洗小が、ことし4月6日に開校式を迎えたのだ。

 「太平洋からのぼる朝日の/光を仰いで/大きな自然と文化を学び/日本の未来を開いていこう」

明るい校歌に

 児童が歌ったのは、できたばかりの校歌。町から作曲の依頼を受け、メロディーを作った。その縁で、開校式に招かれた。「子どもたちは難しい歌を暗譜し、堂々と歌いこなした。存分に練習したのが伝わってきた。腹の底から感動した」

 人口1万8千人ほどの海沿いの町は夏に海水浴客でにぎわう。地元色を映し、希望に満ちた歌詞が続く。地元の科学館で名誉館長を務める元東京大学長の有馬朗人さんが作詞を担当した。

 校歌の作曲は通常、1番と同じメロディーを2番や3番で繰り返す。今回は、1番から3番まで、歌詞の長さに合わせて節回しを変えた労作だった。明るく、さわやかな曲調を大切にした。

 「一言たりとも変えたくなかった。悲劇ではなく未来を志向する言葉が大切なんだ」。校歌に込めた思いは、戦中戦後の体験抜きには語れない。

 原爆投下の焼け野原から9年後、創立間もないエリザベト音楽短期大(現エリザベト音楽大、広島市中区)の非常勤講師となり、広島を訪れた。復興は進んでいたが、原爆ドームが突出した光景にショックは大きかった。

 広島へは東京から鉄道で約16時間かけ、年に数回通った。グレゴリオ聖歌やフランス音楽の指導のため教壇に立った。「教える方も、教えられる方も、懸命だった」。被爆者の知り合いも次第に増えていく。仲良くなった3姉妹のうちの1人は忘れられない。

 福屋百貨店(中区)近くで被爆し、ほぼ全身にガラス片を浴びていた。体内のガラスを取り除くため、毎年のように手術を受けていた。1961年に非常勤講師を退職するまで、東京にいるだけでは分かり得ない惨状に直面した。

かすめた弾道

 自身、戦中に埼玉県内へ疎開していた時、九死に一生を得た。秩父鉄道の寄居駅で米グラマン戦闘機の機銃掃射に遭った。戦闘機は空から真っすぐ向かってきて、「操縦士と目が合った」。次の瞬間、鋭い弾道が両目のそばをかすめた。防空頭巾を脱ぐと、両端に筋が残っていた。「心配した母親にひどく叱られてね」と鮮明な記憶は今も消えない。

 「自分は生き残った。だから何かの役に立ちたいんだ」。そう声を強める。「校歌一つで元気になってもらえるなら、こんなにうれしいことはない」

 広島に降り立つたびに感じていたのは、少しずつ、だが着実に増えていく緑だった。草木がたくましい生命力をたたえていた。

 「学校の子どもが大きくなっても校歌を口にしていてほしい。古里から心が離れることなく、再建の決意につながってくれれば」

 楽譜に「行進曲風に」と記した。前向きな願いを込めたメロディーは、子どもたちの間でこれから何年も流れ続ける。(上杉智己)

もろい・まこと
 東京都生まれ。東京音楽学校(現東京芸術大)卒。1953年、エリザベート王妃国際音楽コンクール作曲部門で日本人初入賞の7位に。大阪芸術大教授などを歴任。音楽評論家としてもクラシック音楽の著書多数。

 連載「3・11以後 復興と表現」は今回で終わります。

(2012年7月28日朝刊掲載)

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