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連載・特集

北東アジア非核兵器地帯――いま包括的アプローチを必要としている

■梅林宏道(長崎大核兵器廃絶研究センター長)

 2011年から12年にかけて、北東アジアに非核兵器地帯を設立しようとする努力に関して注目すべき新しい動きが始まっています。それは、「北東アジア非核兵器地帯は可能か」の可能性論や「どのような非核兵器地帯が望ましいか」のスキーム論の枠組みを超えて、「いかにして実現するか」のアプローチ論の段階に、問題が発展しつつあることを示しています。この発展に大きく貢献したのは、ノーチラス研究所などが2011年11月に東京で開催した「東アジア核安全保障ワークショップ」における元米高官のモートン・ハルペリン氏の基調講演であったと思います。その内容は、同年12月に季刊誌『グローバル・アジア』に「北東アジアにおける非核兵器地帯の提案」と題して発表されました。今日は、ハルペリンの提案の意義を考察し、それを基礎に今後さらに発展させるべき課題について変えたいと思います。

 その前に、北東アジア非核兵器地帯の歴史に簡単に触れておきます。

 冷戦後、北東アジア非核兵器地帯は単なる政治スローガンではなく具体的な政策提案となり、さまざまなスキームが提案されてきました。諸提案を年代順に整理したものを表に掲げました。

 限られた時間で歴史を詳しく述べることはしませんが、この地域の地理を把握するために、発端となったエンディコット氏らの提案 について簡単に説明します。米国ジョージア工科大学の国際戦略・技術・政策センターにおける彼らの研究グループは、数年にわたる共同作業の結果として、1995年3月、北東アジア非核兵器地帯の提案を公表しました。朝鮮半島のパンムンジョン(板門店)を中心に、半径約2000キロメートルの円を描き、その中を非核地帯にするという円形地帯の提案でした。地帯内には、韓国、北朝鮮、日本、台湾の全体と中国、ロシア、モンゴルの一部が含まれます。また、日本、韓国に軍事基地をもつ米国も、条約参加国に含めました。その後、関係国の元軍人や政府関係者との意見交換を重ねるうちに、地帯内に米国領土が物理的に含まれるべきであるという主張が出てきて、円形を長軸が米国アラスカ州の一部にまで伸びるような楕円形地帯へと提案を発展させました。しかし、彼らの提案は、「非核化の対象を非戦略ミサイル用核弾頭に絞る」という限定条件のついた「限定的非核兵器地帯」の提案に留まりました。

 1975年に国連総会決議で初めて非核兵器地帯とは何かという定義をしているのですが、「核兵器の完全なる不在」という非核兵器地帯についての当時の趣旨からすると、一部の核兵器の撤去のみを要求するこのような地帯は、非核兵器地帯というよりも別の軍備管理用語を使うべきなのかも知れません。とはいえ、エンディコットらの提案は、私自身を含め、その後の研究に貴重な刺激を与えました。

 1996年、私はプログラムに載っている図のような「3+3」構想の非核兵器地帯を提案しました。2004年には韓国の市民団体と協議しながら、「3+3」構想に基づくモデル条約を起草しました。それは南北朝鮮と日本の3か国を「地帯内国家(intra-zonal states)」と定義し、米国、ロシア、中国の3か国を「周辺核兵器国(neighboring nuclear weapon states)」と定義した6か国条約によって非核兵器地帯を形成するというものです。地帯内国家が地理的な意味における非核兵器地帯を形成し、非核化の義務を負います。周辺核兵器国は、この地帯を尊重し、核兵器を配備せず、また核攻撃や攻撃の脅しをしない消極的安全保証の義務を負いつつ、核兵器の早期廃棄を誓約します。

 モンゴルは、プログラムの図にありますように、1998年に一国「非核兵器地位」を獲得しましたが、モデル条約では、モンゴルが良しとするならば、「4+3」も可能という注記をしています。

 このような、提案の背後には次のような、地域安全保障に関する狙いがありました。

(1)日本、韓国、DPRK(北朝鮮)の間、あるいは日本と統一朝鮮との間の核兵器競争の芽を摘むこと。
(2)地域の協調的安全保障の枠組みを作る第一歩として、世界的に先例のある非核兵器地帯条約を締結し、その検証や協力体制を担う地域組織を設立すること。
(3)核兵器国の核の傘に依存している国が非核兵器地帯を形成することによって核兵器への依存を脱却し、世界的な核兵器廃絶の努力に積極的に貢献すること。

 これらの目的は、基本的に現在にも当てはまる内容ですが、その後、2003年8月から朝鮮半島の非核化を目指す6か国協議が始まったこと、北朝鮮が2006年と2009年に地下核実験を行ない核兵器保有を宣言したこと、など重要な安全保障環境の変化が起こりました。

 3+3構想が提案された時にはまだ6か国協議という枠組みは存在していませんでした。しかし、構想で描かれた、まさに3+3の6か国が6か国協議を形成することによって、北東アジア非核兵器地帯の枠組みもこの枠組みに定着してきた感があります。冒頭に述べたハルペリン氏の提案も、同じ3+3の構造を持った6か国条約が基本となっています。

 6か国協議は2005年に重要な共同声明に合意しました。9.19共同声明と呼ばれるものです。そこには、6か国協議は「朝鮮半島の検証可能な非核化」を目指すとする一方で、「6か国は北東アジアにおける安全保障協力を促進するための方法や手段を探求することに合意する」と述べられています。非核兵器地帯は6か国協議のテーブルに載るべき議題であることが明確にされたのです。2005年の共同声明には、さらに重要な内容が含まれていました。北朝鮮がすべての核兵器と現存の核計画を放棄すると約束するとともに、米国は北朝鮮に対して核兵器のみならず通常兵器による攻撃の意図もないことを確言したのです。これは、消極的安全保証に新しい内容を盛り込むことができる可能性を示しています。

 しかし、共同声明はすんなりとは履行されませんでした。その後、北朝鮮は2度の核実験を行うに至りました。09年の2度目の核実験の前には、北朝鮮は人工衛星と主張する飛翔体の発射を行いました。それを非難した国連安保理議長声明に反発して、北朝鮮は6か国協議への不参加とそれまでの合意に拘束されないと宣言すると同時に、「チュチェ原子力産業」の着手を告げました。反発の理由は、国際的に認められている宇宙の平和利用の権利を北朝鮮だけに認めないのは、主権の平等を謳う国際原理に反するというものです。チュチェ原子力は、後に国産技術によるウラン濃縮施設と小型軽水炉の建設となって表面化します。小型軽水炉は今年中の稼動を目指していると言われています。この過程によって、一見、6か国協議が壊れたかに思われました。

 実際には、その後も6か国協議への復帰合意と離脱宣言が繰り返されました。2011年に始まった米朝協議において、北朝鮮は米国の人道食糧支援と引き換えに6か国協議への復帰、ウラン濃縮の一時停止を表明しました。金正恩体制に入った今年(2012年)の2月末には米朝会談が合意に達し、北朝鮮外務省報道官は「両国は、9.19共同声明を守ることを再確認」したと述べています。IAEA監視要員の寧辺への復帰も合意されました。しかし、私たちの記憶にまだ新しい今年4月の人工衛星発射を巡って、再び事態は紛糾しました。北朝鮮としては衛星発射の透明性の確保に腐心したにもかかわらず、国連安保理議長の強い非難声明が出されます。北朝鮮は即座に反応して2月の米朝合意の破棄を宣言しました。

 このようにして、2008年12月を最後にして6か国協議は3年半以上も開催されていません。しかし、国際社会は現在も9.19声明に基づく6か国協議の再開による問題の平和的解決を求めています。今年ウィーンで開かれたNPT再検討会議準備委員会における5月11日の議長要約においても、その趣旨が述べられています。

 4月に行われた北朝鮮の憲法の修正において、核保有国という文言が持ち込まれたことに関して一言触れておきたいと思います。これは、決して国のあり方を規定する文脈で書かれたものではありません。序文において、故金正日国防委員長の業績を称える文脈において「先軍政治によって・・祖国を不敗の政治思想強国、核保有国、無敵の軍事強国に転換した」と述べられたものです。それ以上のものではありません。その後、2000年の6・15南北共同宣言の記念日を前後して、北朝鮮は核抑止力へのこだわりについて繰り返し次のように述べています。「朝鮮戦争の停戦協定が半世紀以上も経っているのにそのまま放置され、適切な新しい平和維持メカニズムが確立されず、米国が絶えざる核の脅威を北朝鮮に及ぼしている状況の下においては、北朝鮮が自衛のために核抑止力に接近したことは極めて当然のことである」(6月13日『労働新聞』)、「米国は口では敵対的意図がないと言いつつ執拗に北朝鮮を敵視し続けている限り、国家と国民の平和と安全を保証するために、我が国は核抑止力を強化する努力を続ける」(6月17日、外務省報道官)。私には、先ほどの憲法の文言よりも、これらのメッセージの方が重要であると思われます。

 朝鮮戦争以来半世紀以上にわたって続く不信の積み重ねのなかで、北東アジアの非核化努力は同じような挫折を繰り返しているように見えます。部分的な妥協の合意を積み重ねることによって、少しずつ相互信頼の地固めをしようとするアプローチでは、モグラ叩きのように別の問題が頭をもたげ、固めた地盤が崩れてしまうのです。

 そのような中で、6か国協議のジレンマと行き詰まりを打開するために出されたハルペリン氏の「北東アジアにおける包括的平和安全保障協定」のアイデアは、その内容の一部には留保を付けたい部分もありますが、極めて貴重なものだと思います。彼の論文のタイトルが「北東アジアにおける非核兵器地帯の提案」であったことが示しているように、実現すべきものの眼目として彼は非核兵器地帯を念頭に置いています。しかし、それを個別条約として追求するのではなくて、彼は、6か国協議の中で懸案として浮上している諸問題のすべてを包括的に扱った条約に6か国が合意することを提案しました。その包括性を示すことによって、非核兵器地帯の交渉が前進すると彼は考えたのです。

 協定に含まれるべきと彼が掲げた項目とは、1.朝鮮戦争の戦争状態の終結、2.安全保障に関する恒久的協議会の設置(6か国協議をこれに転換する)、3.敵対的意図がないことの相互宣言、4.核・その他のエネルギー支援、5.制裁の終結と条約違反への対応、6.非核兵器地帯の設置(3+3構想を考えている)の6項目です。彼はこのような包括的な条約を「北東アジア包括的平和安全保障協定」と名付けたのです。この協定は6か国が全体として合意することが求められますが、6か国すべてが個々の懸案の当事者とは限りません。たとえば、朝鮮戦争の戦争状態の終結の問題は停戦協定を結んだ国家(北朝鮮、中国、米国)と韓国が当事者になると彼は述べています。また、条約全体としての発効要件と個々の問題に関する条項の発効要件は同じである必要はなく、工夫があって然るべきであると述べています。

 ハルペリン氏自身も示唆しているように、彼が掲げた6項目は決して網羅的なものではありません。私が触れた6か国協議の経過を考えただけでも、ミサイルと平和的宇宙開発の問題、エネルギー支援に限らない食糧支援さらには広く経済支援の問題があります。

 また、諸問題を包括的に解決する意図とその意図に偽りがことを明らかに示しつつも、なお個々の問題についての交渉内容や交渉ペース、発効のあり方については柔軟に考えることを可能にしたい、というハルペリン氏の意図を汲んだときに、果たして一つの条約にまとめるという方法が最良なのかどうかということも、さらに吟味する必要があると思われます。

 そのような観点から、私はハルペリン氏の意図をもう少し一般化して「北東アジア非核兵器地帯設立への包括的アプローチ」と捉えたいと思います。そして、次のような課題について整理する必要があると思います。

(1)包括的な枠組みの中にどのような問題を取り上げるか(枠組みの要素)。
(2)それらの問題について現実的な解決策をどのように素描できるか。
(3)素描された概略の解決策をひとまとめにして信頼性のある包括的合意に各国が誓約し合うにはどのような形の合意が望ましいか。
(4)包括的合意から個々の問題の詳細な合意へと進む道筋が、単線でなく、しかも異なったペースで進行したとしても、確実に全体が達成されることを保証する方法は何か。

 北東アジア非核兵器地帯の提案に対して、「北朝鮮が核を放棄しない限り無理だ」という反応にしばしば出くわします。日本政府の反応もそれに近いものでした。日本の外務省が2~3年ごとに出版している軍縮外交白書がありますが、その最新版(2011年)に初めて北東アジア非核兵器地帯という言葉が登場しました。そのこと自体は喜ぶべきことですが、「まずは北朝鮮の核問題の解決に努力」と書いています。

 しかし、包括的アプローチの提案に至る6か国協議の経過が示しているのは、非核兵器地帯の設立こそが北朝鮮の核問題を解決する重要な方策だということです。非核兵器地帯が設立されたときに、検証可能な北朝鮮の非核化も達成されるのです。その意味では、今年の4月の参議院予算委員会で、公明党の浜田昌良議員の追及に対して岡田克也副総理が「北東アジア非核兵器地帯は核を北朝鮮に諦めさせるための手段となりうる」と答弁したことは極めて重要な進展です。閣僚による初めての新しい見解の表明です。

 また、今年の3月、日本の国会議員の核軍縮議連の中に超党派の「北東アジア非核兵器地帯促進ワーキングチーム」が生まれたことに注目したいと思います。平岡秀夫議員を座長とするそのチームは、非核兵器地帯条約の骨子を作成すること、それをもって韓国をはじめ6か国協議参加国の国会議員との協議を行うこと、政府の公的な意思表示と交渉の開始を求めること、などを目的としています。

 さらに、昨年12月には、元政治家や軍人の「核不拡散・軍縮のためのアジア太平洋リーダーシップ・ネットワーク」が、その発足宣言のなかで北東アジア非核兵器地帯について強い関心を表明しました。それには、日本から福田康夫、河野洋平、川口順子、岡田克也などの元首相、元外相が参加しています。

 このようなタイミングを的確に捉えて、包括的アプローチの新鮮な議論を豊富に展開し、国際的に広げてゆくことが、北東アジア非核兵器地帯設立への流れをさらに強め、実現への的確な方向付けをするのに重要だと考えています。

文献からみた北東アジア非核兵器地帯の提案

年月        提案者             提案の内容
1995年3月   ジョン・エンディコットら   非戦略核兵器に限定した限定的非核兵器地帯案。板門店を中心に半径
                            2000kmの円形案、その後、米国アラスカ州の一部を含む楕円形案
                            を提案。

1995年     アンドルー・マック       韓国、北朝鮮、日本、台湾を含む非核兵器地帯案。

1996年3月   金子熊夫           板門店を中心に半径2000kmの円形案。核兵器国と非核兵器国に別々
                           の義務を課す。

1996年5月   梅林宏道           3つの非核兵器国(日本、韓国、北朝鮮)と3つの核兵器国(中国、ロシ
                            ア、米国)による「スリー・プラス・スリー」案。

1997年10月  ジョン・エンディコットら    第一段階として、韓国、日本、モンゴル、(北朝鮮)の非核兵器国による
                             限定的非核兵器地帯を創設する提案。

2000年6月   全星勲、鈴木達治郎     日本、韓国、北朝鮮の3か国条約の構想

2004年4月   梅林宏道ら           「スリー・プラス・スリー」案に基づく6か国条約のモデル条約を提案。

2007年春     J・エンフサイハン       一国非核兵器地位の積み重ねによる地帯形成の方法論を提案。

2008年11月  徐戴晶             朝鮮半島非核化南北共同宣言を議定書によって多国化する案。

2010年5月   ノーチラス・グループ     日本と韓国が日韓非核兵器地帯を形成し、そこから拡大する案。

2011年11月  モートン・ハルペリン     6か国協議の行き詰まり打開策として北東アジア非核兵器地帯を含む
                             包括的条約を提案。

(2012年7月28日) 

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