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連載・特集

いのちを見つめて 丸木俊 生誕100年 <上> 大きな絵本

心に届ける被爆者の物語

教員経験土台 豊かな感性

 「原爆の図」を夫の位里と共同制作し、夫妻でノーベル平和賞の候補になった画家丸木俊(1912~2000年)。今年、生誕100年を迎えた。俊自身が封印していた初期作品が近年公開され、油絵や絵本などの幅広い画業の全容が明らかになりつつある。女性洋画家の先駆者でもあったその歩みを追いながら、創作に込めた思いに迫る。(西村文)

 世界で数百万人が目にし「戦後最も知られた絵画の一つ」といわれる「原爆の図」。現在、その大半は埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館にある。  位里は原爆投下の数日後、疎開先の埼玉から故郷広島に入った。俊も後を追い、被爆地を目の当たりにした。3年後、丸木夫妻は被爆者から証言を集め、神奈川県藤沢市のアトリエで描き始める。30年に及ぶ共同制作を続け、全15部を描き上げた。

 「『原爆の図』のイメージが強い俊だが、戦後を代表する絵本画家でもあった」と丸木美術館の岡村幸宣学芸員。生涯に描いた絵本は150冊。そこには反戦画家という顔だけでない、豊かな創作世界が広がる。

 北海道で生まれた俊は1933年、東京の女子美術専門学校(現女子美術大)を苦学して卒業。4年間、千葉県の尋常小学校で代用教員として働いた。児童の絵画や作文を熱心に指導。子どもの心をつかむ絵本作家としての力は、この体験が土台となったのだろう。戦時中に初の絵本を手がけると、たちまち人気作家になった。

 戦時中に発行された「ヤシノミノタビ」(42年)は、南の島の風景や生き物をユニークな造形で描いた。戦後は月刊絵本誌で活躍。「こまどりのクリスマス」(60年)は、繊細なタッチで夢あふれる世界を紡ぎ出す。これら代表作を集めた「生誕100年 丸木俊・絵本原画展」が現在、下関市立美術館で開催中だ。

 「『原爆の図』は大きな絵本ともいえる。多くの被爆者の物語を内包した作品だから」。早稲田大非常勤講師の小沢節子さんは「原爆の図」に俊の絵本作家としての視点を見いだす。

 「燃える炎をのがれて、末期(まつご)の水を求めて―傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。(略)乳を飲ませようとしてはじめて、わが子のこときれているのを知ったのです」(第3部「水」50年)。

 全15部にはそれぞれ俊の語りを基にした説明文が付いている。「言葉と絵のイメージが重なり合って、見る者の想像力に働きかける。子どもは同じ絵本を何度も見る。同様の魅力が『原爆の図』にはある」と小沢さんはいう。

 「かわり果てた姿で抱きあっている姉と妹。からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります」(第5部「少年少女」51年)。俊は自伝で、少女に傷を描き始めたが「みにくい姿になってしまう」と感じ、描くのをやめたと告白している。

 原爆報道が占領軍に規制されていた50年、丸木夫妻は描き上げたばかりの第1~3部を携え、全国巡回展を始める。「誇張ではないか」「グロテスク」といった反響の一方で、広島と長崎では「現実はもっとひどい」と批判を浴びた。言葉にできないほどの体験をどう描けば、見る人の心に伝わるのか―。傷のない少女の美しい裸体には、俊の苦悩の跡がにじむ。

原爆の図
 広島市安佐北区出身の水墨画家丸木位里(1901~95年)と、俊が共同制作。全15部はいずれも縦180センチ×横720センチの和紙に、墨や日本画の画材で描かれている。主に俊が人物描写を担当し、位里が構図や彩色、背景を手掛けた。第1~14部は原爆の図丸木美術館、第15部「長崎」は長崎市の長崎原爆資料館が所蔵。

(2012年8月1日朝刊掲載)

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