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連載・特集

いのちを見つめて 丸木俊 生誕100年 <中> 南洋体験と終戦

開放感と陰鬱 時代を映す

うわべの「解放」失望強く

 太平洋戦争が始まった翌年の1942年、俊は初めての絵本「ヤシノ木ノ下」(文・土家由岐雄)、続けて「ヤシノミノタビ」(文・丸山薫)を描いた。位里と結婚したばかりのころ。夫婦がそれぞれ描いていた水墨画、油彩画は売れなかった。自伝によると「米びつに一粒の米もなくなった」。女が油絵を描くなんて―と言われた時代。俊は生活のために日本軍を賛美する仕事も引き受けた。

 子どもの人気を呼び、当時としては異例の2万部も売れた「ヤシノミノタビ」。主人公のヤシノミが「立派な木になる」と決意をして漂流の旅に出発し、最後は日本の軍艦に拾われて甲板磨きのブラシになる物語だ。「ニッポンノ クニノ オヤクニ タツノダト オモフト(略)ウレシイ キモチガ ワイテ クルノデシタ」

 詩人の丸山薫による文章は戦時色が濃い。一方、俊の絵は今見ても斬新だ。少年の姿に描かれたヤシノミは愛らしく、鮮やかな色彩とのびやかな線が南国の雰囲気を醸し出す。生き生きとした描写の源には位里と出会う前、南の島でくらした体験があった。

 日本の統治下にあった西太平洋のミクロネシア一帯の島々は「南洋群島」と呼ばれ、多数の日本人が移住。創作テーマを求めて渡航する芸術家も多かった。俊は40年、28歳のとき半年間、パラオ諸島やヤップ島に滞在。半裸の島民像を中心に約200点ものスケッチを描いた。

 現地の女性たちが日陰でくつろぐ様子を豊かな色彩で捉えた油彩画「ヤップ島」(40年)。上半身裸に腰蓑(こしみの)を巻いたその姿は力強く美しい。俊の裸体美への称賛と、島の女性に対する親愛の情が感じられる。

 一転して陰鬱(いんうつ)な雰囲気が漂う「アンガウル島へ向かう」(41年)は帰国後に描いた日本画。鉱山で過酷な労働を強いられた島の男性たちの群像だ。広島市三滝町(現西区)の位里の実家で制作したとみられる。かすれた墨跡が目を引く画風は、後年の「原爆の図」を思わせる。

 この作品の持つ異様な迫力に「衝撃を受けた」と語るのは、戦時下の女性画家に詳しい栃木県立美術館の小勝禮子学芸課長。「日本軍への批判なんてとんでもない、という時代。俊にも批判の意識はなかったはずだが、描くうちに島の男たちに対する共感があふれ出たのだろう。芸術のすごさを実感させる作品だ」

 原爆投下、そして終戦―。広島から東京に戻った俊は2年後、傑作を描く。第1回前衛美術展に出品した「裸婦(解放されゆく人間性)」(47年)。春の訪れを感じさせる満開の花を背に、立ち上がる若い女性の堂々とした裸体。その表情は希望に満ちる。「戦後の社会の空気をみごとに捉えた、俊の洋画を代表する一枚」と原爆の図丸木美術館の岡村幸宣学芸員は評価する。

 しかし、俊は間もなくこの絵を封印してしまう。その理由について岡村学芸員は「米国の管理上での『解放』でしかなかったと、失望したのでは」と推察する。そのころ、米国は非軍事化と民主化を軸とする対日占領政策を転換。労働組合の取り締まりや共産党への圧力を強めていた。

 「ひろしまから東京へ帰り、そうして三年、平和だ、建設だ、という言葉にぼけていたのです」(自伝「女絵かきの誕生」)。俊が入市被爆の影響で体調を崩したのを機に、48年夏、丸木夫妻は東京から神奈川県藤沢市に転居。「原爆の図」の制作を始める。(西村文)

俊と位里の出会いと結婚
 独学で前衛的な水墨画を描いていた位里の展覧会を俊が訪れたことがきっかけで、1941年に結婚。位里は40歳、俊は29歳だった。若手芸術家が集まっていた東京・池袋周辺のアトリエ村で新生活を始めた。結婚の前、俊は外交官一家の家庭教師として2回、ソ連(現ロシア)のモスクワに赴任。戦時中にはソ連の風物を描く挿絵の仕事もした。

(2012年8月2日朝刊掲載)

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