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連載・特集

いのちを見つめて 丸木俊 生誕100年 <下> 孫たちへの遺言

平和を願う心 絵本に込め

二十数ヵ国で読み継がれる

 1950年2月、丸木夫妻は完成した「原爆の図」(第1部「幽霊」)を、第3回日本アンデパンダン展(東京)に出品する。当時は占領軍が原爆報道を規制。弾圧を恐れた主催者によって、題は「八月六日」に変更された。

 やけどで垂れ下がった皮膚を引きずりながら、女性たちがさまよう姿を、俊がデッサン力を生かして克明に描写。構図や墨による大胆な表現は、位里の水墨画家としての力量が発揮された。2人の個性がぶつかり合う大作は、大反響を巻き起こした。

 「もっともっと描いてください」。展覧会場で被爆者に言われたと、俊は自伝で回想している。寄せられた被爆体験や写真などを基に、丸木夫妻は50~51年に第2部「火」、第3部「水」、第4部「虹」、第5部「少年少女」を次々と描く。全国各地で労働組合や学生団体が巡回展を開催。被爆の惨状が世に知られていった。

 「『原爆の図』は全15部作を並べて見ると、戦後社会と丸木夫妻の画家としての歩みが分かる」。広島市現代美術館に勤務時代、丸木夫妻の作品の調査・研究にあたった兵庫県立美術館の出原均学芸員は指摘する。52年4月、日本は独立。国民は公開された写真で被爆の実態を目の当たりにした。画家たちは新たな原爆表現を迫られた。

 位里は「原爆の図」を離れ、水墨画の創作に没頭する道を選ぶ。俊は平和運動に関わりながら、一人で「原爆の図」の新たな画題を模索し続けた。第9部「焼津」(55年)は第五福竜丸の被曝(ひばく)を、第10部「署名」(56年)は原水爆禁止運動を描いたが、美術批評家から厳しい批判を浴びた。

 「もう一度ひろしまの惨害と取り組もう」と挑んだ第11部「母子像」(59年)。炎の中で幼子を守る母親の群像は、初期のリアルな描写から一変。デフォルメされた人物像は、創作にもがき苦しむ俊の姿にも見える。

 一方、俊の多彩な絵本世界はこの時期に花開いた。海外の童話を華やかに描いたほか、日本各地の民話を位里から学んだ水墨画の手法で表現したシリーズを生み出す。「つつじのむすめ」(文・松谷みよ子、74年)は代表的な1冊。「恋する娘の情念を、朱のにじみで鮮やかに表現した」。丸木俊・絵本原画展を開催中の下関市立美術館の中村美幸副館長は評価する。

 水墨画と絵本の世界でそれぞれ一つの境地を開いた位里と俊は、70年代に入ると共同制作を再開する。長崎に伝わる韓国・朝鮮人被爆者にまつわる話を基に描いた第14部「からす」(72年)。屍(しかばね)にたかるカラスの群れの上空に、死者の魂を乗せた民族衣装が舞い上がり、故郷に帰っていく―。墨のにじみが織りなす幻想的な物語世界は、俊の描く民話絵本をほうふつさせる。

 人々が語り伝えてきた記憶を表現し、後世へと伝える―。俊は「原爆の図」を描き続けることで、「絵画とは何か」という根源的な問いに一つの答えを見出した。82年に「原爆の図」全15部が完成した。それ以外に、丸木夫妻は南京大虐殺やアウシュビッツ、沖縄戦、水俣病など、人類の悲劇の記憶を描き続けた。

 俊は70歳を前に、「原爆の図」の絵本版ともいえる「ひろしまのピカ」(80年、小峰書店)を描いた。7歳の少女が母親と逃げ延びる中で見たヒロシマの惨劇―。原爆で奪われた全ての命を温かな色彩で包み込むような、とうろう流しの描写で物語は終わる。子どものいなかった俊が「孫たちへの遺言」と呼んだ絵本は今、二十数カ国の子どもたちに読み継がれている。(西村文)

「原爆の図」巡回展
 初期3部作が完成した1950年から国内、53年からは欧州とアジアを中心に海外でも展開。70年に実現した米国巡回展は、丸木夫妻が日本の加害責任に目を向ける契機ともなった。

(2012年8月3日朝刊掲載)

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