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連載・特集

瑞穂と8・6 「歩こう広島まで」25年 <上> 記憶

故郷への思い 足動かす

 1945年8月6日に広島で被爆し、中国山地の故郷の集落を目指して歩いた人たちがいた。約70キロ。その道のりを逆にたどる「歩こう広島まで」を旧瑞穂町(現邑南町)の住民有志が始めて、今年で25回目になる。県境を越えて続く活動の原点と、今後を展望する。(黒田健太郎)

 「熱気とせみ時雨。あの夏を思い出す」。邑南町市木の河野頼人さん(81)が、三坂峠にある県境の道しるべを見つめた。67年前、広島駅近くにあった国鉄広島第一機関区に在籍していた。

 建物内にいたあの時、窓から強烈な光が差し込んだ。「太陽が爆発したのか」。気付くと窓が割れ、爆風で床に倒れていた。

 山に逃げたが、眼下の街は煙と炎に包まれていた。「広島の街が無くなっていた。怖くて言葉にならなかった」と振り返る。

 15日の終戦時、岩国駅で空襲のがれき処理をしていた。その日から血便が止まらなくなり、体が弱っていった。広島に戻ると寮長から帰郷を命じられた。

 同じ建物で被爆した三島石太郎さん(81)=邑南町三日市=は、父浅市さんと16日、寮で再会した。父は中国山地を越え、自転車で被爆地に駆け付けた。

 三島さんと河野さんは連れ立って21日朝、実家を目指して広島を出発した。強烈な日差し。昼間は木陰で休み、朝と夕方に歩いた。「こんな遠くから父が来てくれたなんて。感謝しながら歩いた」と三島さん。河野さんは「帰りたい思いと、仲間の励ましで何とか歩けた」と回想する。

 河野さんは新庄(現広島県北広島町)で三島さんと別れ、23日午前、市木に着いた。三坂峠から集落が見えた時、こみあげてきた。帰宅すると、祖母が抱きついて泣いた。

 戦後、被爆者相談員を務めた河野さんだが、長い間「自分の言葉では表現できない」と被爆体験を若い世代に語らなかった。2000年になって、スキー合宿で市木を訪れた長崎県の中学生に少年時代の記憶を語った。

 04年には「歩こう広島まで」の事前学習会に参加し、地元の子どもたちに心情を伝えた。この夏も、中高生を中心に68人が歩く。「同じ年頃に自分は被爆した。広島へは暑くてつらい道のり。私たちがなぜ、核兵器を許さないかを一緒に考えて」と呼び掛けた。

(2012年8月5日朝刊掲載)

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