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連載・特集

瑞穂と8・6 「歩こう広島まで」25年 <下> 継承

平和の輪 次世代に脈々

 この夏も4日正午に邑南町を出発した。疲労がピークに達した5日未明、広島市安佐北区の国道54号で、同町出羽の無職田中庸三さん(55)が、一緒に歩いていた中学生に「来年は下級生に声を掛けて誘って」と呼び掛けた。

 田中さんは1988年に始まった「歩こう」の草創期を知る。歩き始めた契機は、その年の6月、登山仲間の懇親会で聞いた一言だった。「終戦直後、家に広島から被爆した親子が歩いて来た」。20歳ぐらいの娘は帽子を脱ぐと、髪が全て抜けていたという。

 85年にUターンするまで、田中さんは広島市などで会社勤めをしていた。中区堺町に住み、平和記念公園は通勤ルートだった。「原爆は人ごとだと思っていた。瑞穂との関わりを知らなかったことが情けなかった」と振り返る。

 登山仲間を中心に声を掛け合い、中学生4人を含む8人で88年8月5日、出羽公民館を出発した。焼けたアスファルトに真夏の日差し。約70キロの過酷な道を歩いて翌朝、原爆ドームにたどり着いた。

 見慣れたはずのドームを立ち止まって見上げるのも初めてだった。「被爆者の思いを伝えないといけないと、強く思った」。遊び半分の気持ちで参加した中学生も、真剣な表情に変わっていた。

 田中さんは翌年以降も参加。中学、高校や公民館、高齢者グループにも協力の輪が広がり、歩く人も増えた。原爆の子の像にささげる千羽鶴も携えるようになった。95年には中国とフランスの地下核実験中止を求める署名を集め、当時の町人口の2割に当たる1016人が賛同した。

 町内の自動車部品メーカーに再就職した田中さんは、多忙のため2004年以降、参加できなかった。ことし7月末に退職し9年ぶりに歩いた。初めて参加した88年に中学生だった世代も30代後半になった。

 当時、石見中3年だった町職員石川稔さん(38)=邑南町井原=は、長男の石見中1年颯也(そうや)君(12)たち息子3人と原爆ドームを目指した。「自分と同じ体験を通して、平和の尊さを教えたかった」と石川さん。次世代へバトンが受け継がれていく。(黒田健太郎)

(2012年8月6日朝刊掲載)

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