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連載・特集

被爆67年 未来へ歩む 核の恐怖 祖母と孫共有

広島は戦争乗り越えた きっと私たちも

いわきから避難 三浦さん式典に

   フクシマの子どもや記者が6日、広島市中区の平和記念公園であった平和記念式典を訪れた。67年前に原爆で焼き尽くされた街を、緑あふれる姿によみがえらせたヒロシマ。その姿を福島第1原発事故によって核の影に覆われた古里に重ね合わせ、復興への希望と勇気をあらためて心に刻んだ。

 福島県いわき市から広島市安芸区へ避難している船越小6年三浦友菜さん(11)の姿も、平和記念式典にあった。「家族と暮らせる当たり前の日が来てほしい」と願う小さな背中。同行した胎内被爆者の祖母新谷啓子さん(66)=同区=は「それまで寄り添うよ」と見守った。

 友菜さんは原発事故の直後、母綾さん(39)、姉、妹と綾さんの母啓子さん方へ避難。事務機器販売会社を営む父芳一郎さん(42)は地元に残っている。

 転校後、市教委が募った作文を書いた。「放射能を心配して暮らす今の日本は、平和とは言えない」

 作文は児童約1万人の中から優秀作にあたる20人に選ばれた。こども代表が読む「平和への誓い」をこの20人で考え、式典にも招かれた。誓いの一節には、原発事故で家族が離ればなれになった子どもの姿も盛り込まれ世界に発信された。

 「私はあの日を語ってあげられない」。式典前、啓子さんはこう話していた。母親は広島駅(南区)で被爆。啓子さんは翌年1月に生まれた。2007年に亡くなった母は、体験を多くは語ろうとしなかった。

 啓子さんは、友菜さんの隣でこども代表の誓いを聞いた。「自分なりに平和の意味を考えてたんだ」とあらためて実感した。

 式典を終え、2人は原爆ドームなどを巡った。「広島は悲惨な戦争を乗り越えたんだな」と友菜さん。「福島もきっと、ね」。啓子さんはほほ笑んだ。(長久豪佑)

(2012年8月7日朝刊掲載)

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