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連載・特集

被爆67年 過ちを問う 継承 福島に誓い

体むしばんだ核 利用を許してしまった

平和宣言に体験談 府中市の中村さん

 原爆の日を迎えた6日、ヒロシマは核の平和利用の是非をめぐり、揺れた。広島市長が求め、首相が約束した安全なエネルギー政策は、市民に、被爆者に届いたのか。一方で、フクシマから連帯と支援を求められた被爆地。その在り方を問うように、平和記念公園の内外で、脱原発のうねりは広がった。

 平和記念式典の間、府中市の中村博さん(80)は式のしおりの活字を追っていた。何度も何度も。遺体を収容した自身の被爆体験が平和宣言に引用されたからだ。13歳の記憶が世界に届いたこの日、中村さんはフクシマに思いをめぐらせた。「核なき世界を」と胸に刻み込みながら。

 動員学徒として国鉄広島第一機関区(現広島市)で働いた。あの日、体調を崩して寮内におり、外傷はなかった。2日後、警防団と遺体の収容作業へ。持ち上げると皮がむけ、手に骨が当たる。「あの感覚は忘れられん」。妻逸子さん(76)や3人の子どもにもなかなか明かせなかった。

 幾度もがんを患った。被爆者として手術のたびに核兵器を恨んだが、「暮らしが豊かになるなら」と原発は容認してきた。それを変えたのは福島第1原発事故だ。放射能被害は福島の人々の営みを奪った。何げない日常を破壊した。

 ことし1~5月、非政府組織(NGO)による被爆者の証言の旅に参加し、21カ国を巡った。ウクライナのチェルノブイリ原発周辺は26年が過ぎても人影はない。終止符は打たれていなかった。

 旅の途中、各国で「被爆国なのになぜ原発があるのか」と問われたが、答えられなかった。核と人類は共存できない―。旅で気付かされたヒロシマの訴えを胸に被爆体験談を応募した。

 ただ、原発容認の動きは止まらない。関西電力大飯原発(福井県おおい町)は再稼働。平和宣言でも松井一実広島市長は原発の是非に触れなかった。物足りなさといらだちが胸に残った。

 式典終了後、同じく自らの体験が平和宣言に盛り込まれた広島市安芸区の津江本アヤノさん(87)とともに、原爆慰霊碑に手を合わせ、わびた。被爆国で再び核利用が始まったことを。

 「忘れちゃいかん、福島を」。帰路、ヒロシマを語り継ぐことを誓った。その耳に、「脱原発」を訴える公園内の声が、確かに大きく響いてきた。(胡子洋)

(2012年8月7日朝刊掲載)

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