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連載・特集

被爆67年 記憶刻む 復興はまだ終わってはいない

広島駅前「平和の河岸」

提案の中本さん 30年越しの願い実現へ

 広島原爆の日の6日、惨禍に巻き込まれた人々の冥福や平和への祈りが広島市や周辺で続いた。あの日から67年。被爆者の高齢化が進む中、体験の継承や核兵器の廃絶を目指すイベントも繰り広げられた。

 古里の駅前を平和都市にふさわしい玄関口にしてほしい―。被爆者でインテリアデザイナーの中本博子さん(82)=東京都港区=は1983年に広島市にこう提案し、計2100万円を寄付した。市は本年度、JR広島駅南口(南区松原町)の河岸緑地の整備を始める。中本さんは平和記念式典に参列後、駅前に立ち、30年越しの思いを語った。

 「ずいぶんきれいになったけど、足りない」。中区の平和記念公園から駅前に移動した中本さんは、率直に口にした。「広島駅を降り立った人が平和を感じられるものが少ない」と思うからだ。

 中本さんは被爆当時、松原町に住み、広島女子高等師範学校付属山中高等女学校の3年生だった。通学中に爆心地から1・2キロの大手町(現中区)で熱線を浴び、顔から足まで左半身にやけどを負った。寝たきりとなり、焼け野原の古里を見た記憶はない。数カ月後に回復した時は既に駅前に闇市が立っていた。母と4歳の妹は被爆死した。

 51年に米国に留学し、広島を離れた。しかし、帰省するたび、再開発が進まない駅前が「終戦後の名残をとどめたまま、停滞している」と気掛かりだった。東京で65年にデザインスタジオを設立。83年に「駅前の緑化に役立ててほしい」と市へ寄付したが、再開発の遅れを理由に放置された状態になっていた。

 市は2001年に中本さんに謝罪。08年から具体的な協議に入り、福屋広島駅前店南側の河岸緑地や歩道計約1600平方メートルに石畳を敷いたり、桜の植栽を進めたりすることで合意した。市は本年度予算で整備費2600万円を計上。中本さんは国内外から寄付を募り、ハトをモチーフにした塔を制作して寄贈する考えだ。

 「復興はまだ終わってはいない」と中本さん。「広島を訪れた次代の子どもが、平和を大切に思う場所に仕上げたい」と誓いを新たにした。(藤村潤平)

(2012年8月7日朝刊掲載)

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