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連載・特集

引野の戦禍 福山空襲67年 <上> 焼夷弾

「安全な田舎」に炎の雨

 福山市は8日、福山空襲から67年を迎えた。市街地の約8割を焼いた焼夷(しょうい)弾があの日、まち外れにも投下されたことはあまり知られていない。JR福山駅の東約5キロにある引野村(現・福山市引野町)。市中心部で消えつつある戦禍の痕跡を、引野に訪ねた。(久保友美恵)

 「夕立のように降ってきた」。渡辺巖さん(78)には焼夷弾が雨のように見えた。祖母と母、弟、妹と一緒にはだしのまま必死で逃げた。畑に落ちてきた焼夷弾の一部を、今も保管している。屋根を突き破る「貫徹力」を高めるために備えられた重りだ。

 その畑は自宅の庭に変わった。「興味も持たれないでしょうから」。渡辺さんは、空襲の記憶を子や孫に話したことはない。

 米軍B29爆撃機の大編隊は、四国側から瀬戸内海上を福山へ向かった。市中心部の手前から攻撃を開始。ルート上に、引野村があった。

 村役場、農業会事務所、民家…。地元住民が1986年に発刊した町誌は、約25戸を焼失したと記す。

 国民学校の校舎も、その一つ。疎開してきていた大阪市の上福島国民学校5年生の男子33人が、寝泊まりしていた。今は大津市に住む小林健吉さん(78)は、校門脇の防空壕(ごう)に逃げた。「周りは炎に包まれ熱かった」と振り返る。

 引率教諭だった藤井喜代子さん(2008年に86歳で死去)も手記に書き残している。「警報を聞き急いで子どもを起こし逃げさせた。焼夷弾が屋根を突き破って落ちてくる。当たれば即死。一瞬で校舎は炎に包まれた」

 村に軍事施設はなかった。児童疎開先に選ばれるほど「安全な田舎」だった。市人権平和資料館の北村剛志副館長はいう。「引野の被害は、米軍の無差別攻撃を証明している」

福山空襲
 1945年8月8日午後10時25分ごろ、91機の米軍B29爆撃機が襲来。市街地は、1平方メートルに1本の割合となる約18万本の焼夷(しょうい)弾が投下され約8割が焼失した。福山市の資料が犠牲者354人、焼失家屋1万179戸とする被害は当時の市内分。引野村は含まれていない。

(2012年8月9日朝刊掲載)

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