×

連載・特集

引野の戦禍 福山空襲67年 <中> 黒い壁

爆撃を恐れ塗った名残

 軒下の土壁が、ところどころ黒くすすけている。これが戦争の名残だと知る人は、少ない。

 電気工事業者が所有する福山市引野町の倉庫。壁は高さ約5メートル、幅約25メートル。近くに住む山崎信義さん(78)が、引野国民学校6年生だった当時を振り返った。「真っ白だった壁を大人が真っ黒に塗っていた。あのころは近所の家もみんな黒かったんですよ」。戦後67年。歳月を経て下地の茶色い土が見える面積は増えた。

 戦中、人々は家の壁を墨汁やコールタールで塗った。米軍の爆撃機から見えにくくさせるためだった。倉庫は1945年8月8日の福山空襲でも奇跡的に焼け残った。周辺が戦後、開発される中でも、ぽつんと残った。そして今、米軍の攻撃を恐れて息を潜めるように暮らしていた当時の生活を伝える。

 藤井成泰さん(69)も戦後、母親に「建てたばかりの大事な家を黒くするのは嫌だった」と聞いた。それでも塗ったのは、一帯が空襲の標的となったときに「あの家が白かったから」と言われることを恐れたからだという。

 市が編さんした福山戦災復興誌によると、福山では39年ごろから、婦人会を中心にバケツリレーなどを訓練する防空演習が本格化した。人々は、家庭の部屋の電灯に黒い布をかぶせる灯火管制にも従った。

 黒い壁は今、市内ではほとんど残っていない。「竹やりで敵を倒す訓練をしていた時代。効果に疑問があっても、勝つと信じて必死だった」。山崎さんは、壁を見ると思い出す。(久保友美恵)

(2012年8月10日朝刊掲載)

年別アーカイブ