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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <6> 新米記者

県政担当 ネタ探しに汗

 昭和16(1941)年4月、中国新聞へ入社した。まだ合名会社で資本金30万円であった。中国ビル(広島市上流川町、現中区胡町の7階建て)の一室を開放してもらって図書室を作り、最小限必要な書籍、雑誌を備えた。それから投書欄を始めた。次は映画評、評というより紹介に近いものだったが、紙面に少しでも潤いがでればよいと思った。

 ある日、街でひょっこり(広島高、東大同期の)宮木思雲君に会った。学校の先生をしていた。「よかったら新聞社へ来ないか。有意義で面白いぞ」と誘った。中町国吉主筆(新潟県教員を経て1920年に主筆で入社)は話を聞いて「明日から来なさい」と言った。だんだんと優秀な若者の払底(ふってい)する時代になりつつあった。宮木君とはよく一緒に取材に出た。(書いた記事が)3段見出しなら3点、2段なら2点と決めて得点を競った。

 12月8日、真珠湾攻撃があり太平洋戦争が始まった。私はそのころから県政記者となり(中区加古町にあった)県庁へ通った。記者室は二つに分かれていた。中国は朝日、大阪時事新報と一緒、片や毎日、読売、合同(現山陽新聞)、関門日報だった。私は時事新報の石井麗雲氏に父からもらった百円札を出して、「これで各社の記者に顔つなぎしてくれ」と頼んだ。県政何十年かというベテランだったが、「よしやろう」と大華楼(東区二葉の里にあった料亭)で大騒ぎをした。

 記者室が二つに分かれているのは困るというので県総務部長が間に入って手打ちをして、一緒に大きな部屋に入った。碁と将棋は常時で、私は時々将棋を指した。中国だけは夕刊を稼がねばならないので、県庁へ着くとすぐ各課を回った。

 新聞記者は大抵酒癖が悪い。(県政記者室で)一番長く一緒だった同僚は山田俊秋君で、修道中の開祖山田十竹先生の孫だった。実直で華麗な筆を振るった。酔うと人柄が変わり、いつか家まで送ると言って聞かず、道のまん中で泣きだしてしまった。当時の若者の不安と焦燥が激情を駆り立てたのだろう。山田君は原爆で亡くなった。

 清崎正義君という黒眼鏡をかけた押しの強い記者が入社した。九州の新聞社の出身ということだった。その当時のスクラップをタネ本にしているうわさが出たが、まことによく記事を稼いだ。その清崎君とはわりによく行動を共にして一緒に飲んだりもした。

 東条英機首相が広島入りした時も、メーンは清崎君で写真は腕利きの藤田忠一君が付いた。軍需工場視察で、そこの社長の鉢巻きと首相の顔が大きく向き合った写真が印象的だった。

 東条首相は開戦1周年を控えた1942年12月2日広島を訪問。西区南観音にあった兵器製作所から「全国五百万の産業戦士」に奮起を呼び掛け、中国新聞3日付朝刊は写真4枚を使って報じた

 宮木君は昭和17年の正月、「君にはいろいろ世話になった」と入営して行った。私も徴兵検査を受けた。わりに身体には自信があるので当然入営と覚悟していた。ところが検査で胸に影があるというので「第三乙」を言い渡された。黒川巌博士(後に県病院長)に再検査してもらったが、そんなことはないと否定された。何かキツネにつままれたようだったが、(44年4月に入営するまで)娑婆(しゃば)に暮らさせてもらうことができた。

(2012年10月2日朝刊掲載)

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