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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <7> 戦時下の結婚

玉砕の報 甘美さ消える

 昭和17(1942)年5月、中国新聞は創刊50周年を迎え、「中国文化賞」を創設して(広島市中区上八丁堀にあった陸軍の)偕行社で盛大に祝宴を催した。私は理事に任命されたが、相変わらず県政記者を続けていた。

 18年4月、兄利(とおる)がビルマ(現ミャンマー)から無事復員してきた。本社は文化局を新設し、兄は初代局長となった。7月広島市に中国地方行政協議会が設置され、その初代協議会長に横山助成氏(広島県知事)が任命された。第1回行政協議会は8月に開かれ、広島新聞界は空前の活況を呈し、総勢50人を超える各社の記者がしのぎを削った。それを契機に(中国新聞社は)鳥取市に支局を開設した。中国地方のブロック紙としての自覚が行政協議会と共に目覚めたのであろう。

 ぼちぼち結婚の話が出始めた。なにしろ当時はほとんどの若者は兵隊になり、適齢期の男性は極端に払底(ふってい)していた。

 18年の春、三次(現三次市)の金井酒造の次女信子さんの写真が来た。写真は手札形の小さいもので断髪で横向きの、いわゆるお見合い写真らしからぬものだった。この写真は私が終生、名刺入れに入れて持ち歩くことになった。信子の方は一度の見合いで決まると思っていなかったのでびっくりしたが、別に異存もなかったそうだ。

 とにかく話はとんとん拍子で進んだ。私も信子も正式の見合いはこれが最初の最後だったわけだ。当時は衣料切符の時代で、とても婚礼支度ができない。いやそんなことより、このご時世だから早い方がよいというやりとりが何度かあって、見合いから2カ月足らずで結婚と決まった。信子はまだ日本女子大在学で、あっけにとられたようだが、中退して従った。

 18年5月30日に結婚した。式は広島の鶴羽根神社(東区)であった。私はいが栗頭でモーニング姿、信子は白の和装であった。兄が私のところへ寄って来て「いいお嫁さんだね。おめでとう」と心から言ってくれた。兄はこの時初めて信子を見たわけだ。

 披露宴というか、親族同士が集っての祝膳は平野町(中区)の自宅であった。戦局も進んで、たくさんお客さんを呼んで披露するなどとてもできるような情勢ではなかった。そういうことをやりかけて、非難する投書がきて慌てて中止した家がたくさんあった。

 その夜、私と信子は厳島の「宮島ホテル」(1952年焼失)へ向かった。特筆すべきことは新婚旅行にお供がついた。金井家に古くから出入りしている環水楼の元おかみの「お種さん」というご婦人が同行してきた。名目は和服の着付けということだったが、「今夜はお嬢ちゃんはお疲れだから」とささやいた。お種さんは子どもが生まれてからわが家の手伝いに来てくれたので、この夜のことを持ち出しては「この邪魔くりめ」と冗談を言っては大笑いになった。

 忘れもしない。その翌日の新聞紙面に「アッツ島で日本軍玉砕」が報じられていた。薄暗い宮島ホテルのロビーで読んだ衝撃はいかにも大きかった。甘さに冷水を浴びせられた思いだった。当時の若者はたとえひとときでも喜びに浸り切ることさえできなかったのだ。

 大本営は1943年5月30日、アリューシャン列島アッツ島の守備部隊二千数百人が、上陸した米軍の前に「全員玉砕せるものと認む」と発表した

(2012年10月3日朝刊掲載)

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