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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <8> 召集

銃剣術や炊事 訓練積む

 昭和19(1944)年3月16日の夕刻、召集令状がきた。4月1日に呉海兵団へ入れというのだ。「朗さん、とうとうきましたよ」と呼びたてた母の高ぶった声を忘れない。時局が容易でないことを思えば、私が残されていたことはむしろ不思議であった。

 「兵として直接国のために働くことができるのはまさに臣たる者の光栄ではないか。私はこの時節到来を喜ぶ」。その夜の日記に私はこう書いている。

 男は大なり小なり似たような考えを持って少しは納得して兵になったと思う。しかし女は違う。ことに(妻)信子は少しも納得せず、身体を震わせて泣いた。私もどうかすればそれに引きずられそうになる。しかし、それではいけない。強いて気分をそらして軍人勅諭の暗唱に精を出した。

 広島高へはすぐ翌日行った。親しくなった文科の生徒たちにあいさつがしたかった。しかし期末休暇中だからどうしようもない。別れの言葉を便箋3、4枚に書いて送った。後で聞いたら教室の後ろにしばらく張ってあったそうだ。

 編集局統制委員長に就いた1943年9月から母校の広島高で「法制・経済」を教え、生徒には後の東映社長岡田茂氏らがいた

 4月1日朝、私は奉公袋一つを持って呉海兵団へ入隊した。それから大竹海兵団に移った。私たちは主計兵として教育を受けた。タマネギの皮をむく競争をして負けた班は駆け足をさせられた。米のカマスの運搬もあった。手旗信号を熱心に習った。毎食前、班長が何か信号を送る。それが解読できない者はいつまでも食事にありつけなかった。

 新兵教育を終わった時、班長から「山本が1番だぞ」と言われた。銃剣術からみそ汁の味はどうつけるかという試験まであったから、万能選手というところだ。15班くらい、200人近い人数だった。

 座学で「立処真」という言葉を習った。今の軍人生活が決して仮ものだったり偽りのものであったりするわけではない。次の段階に移るためのほんの道程だということでもない。その時々が真実なのだ。そのつもりで今を真剣に生きよと言われた。

 私は海軍で結局この言葉だけを教わった気がしている。「立処真」が以後の私の生き方に大きく影響していると思う。

 大竹へ来てしばらくしてから家への通信を許すということがあった。これは何よりうれしく、すぐ現況を書いて送った。やがて(2月に生まれた長女)光子だけ、信子が光子を抱いたもの、母と信子の3枚の写真が来た。これらの写真を近くにおいてうれしいことつらいことを語りかけた。手紙の往復があるようになって気分も落ち着いてきた。

 3カ月半の新兵教育が終わると1等主計兵になった。海軍の2等兵には星一つない。1等兵で初めて星の腕章がつくのだ。新兵の多い大竹海兵団だけに今度はたくさん敬礼がしてもらえるようになった。酒保(兵営内の売店)にも時々出入りできるようになったのでまんじゅうを買って、新兵で入ってきた社の先輩高洲一美君(後に論説委員長)に届けた。ものすごく喜んでもらった。

 私は再び主計科短現(海軍主計科短期現役士官。1942年から訓練中は見習尉官)に挑戦した。予備学生志願者と一緒に勉強する時間を与えられたりした。今度は合格することができた。これが短現最後の12期なのである。

(2012年10月4日朝刊掲載)

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