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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <11> 被爆直後

本社が全焼 発行に苦闘

 昭和20(1945)年8月6日の原爆投下によって広島市は灰じんに帰した。死傷者は二十数万人と推定された。爆心地から約900メートルの上流川町(中区胡町)の中国新聞社は、(輪転機2台をはじめ)機械設備をすべて焼きつくした。社員の死亡は100人を超えた。こういう事実は後にいろんな情報を総合してやっと判明したことで当時は手探りであった。

 社長である父、山本実一は市郊外の府中町に疎開していた。広島の惨状と本社の焼失が、三々五々集ってきた社員の口々から分かってきた。一番先に考えたことは、中国新聞の発行をどう継続するか、社員並びに家族の安否をどう確認するかであった。

 それと心の奥底に引っかかったのが兄利(とおる)の安否であった。兄は6日朝には府中町宅へ帰るはずであった。何とか生存を確認したいとする親心は当然であろう。そしてついに兄の確認はいまだに不可能なままなのである。

 実一社長の長男で編集局長だった山本利氏は1945年3月、再び召集され広島師団司令部報道班へ配属された。29歳だった

 新聞発行の継続と言っても本社が焼失した以上、自力で印刷するわけにはゆかぬ。そこで戦時中の新聞相互援助契約によって朝日、毎日、それに島根新聞(山陰中央新報)に代行印刷を依頼することにした。

 命を受けた内田一郎(当時、編集局次長)、糸川成辰(しげとし)(調査部長)、沼田利平(りへい)(厳島支局長)の3人は市内の連絡が途絶していたため苦心惨憺(さんたん)の末、宇品の陸軍船舶司令部から無電連絡を行った。夜9時半だったという。中国新聞の題字を冠した代行印刷紙が届いたのは9日付からだった。

 政府の「新聞非常措置」で1945年4月21日付から広島県内は中国新聞だけが出ていた。代替紙は朝日、毎日新聞の大阪、西部両本社から20万部、島根新聞は8月11日から1万部が届く(「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」など)

 幸運であったことは輪転機を1台、市近郊の温品村(東区)の川手牧場に疎開させていた。社員のみにより解体し、馬車で運び、据え付けが完了したのが8月2日であった。その他必要資材も一応準備された。

 中国新聞を自分たちの手で発行したいという思いは全社員みな同じであった。何とか働ける社員は温品村に集結した。天幕の3張りの中か、(牛舎を使った)工場の片隅で寝た。いろんな苦難の末に9月3日付から「温品版」を発行したのである。

 本社の総務、業務、編集の一部は、松田重次郎社長の好意により(府中町の)東洋工業(マツダ)医務室を提供してもらい、8月25日移っていた。私は復員翌日の9月3日から事務所に出勤し、温品工場にも顔を出した。12日付で次のような辞令がでた。

 命総務局長事務取扱 理事 山本朗

 私は当時26歳になったばかりの青二才であったが、以後は好むと好まざるとにかかわらず、社の中枢に位置して、あらゆる問題と対決せざるをえなくなった。いつも全力投球し続けたつもりである。新任の総務局長の業務に追いまくられた。人手不足の上に何とか働いている人も家族の死傷、あるいは家屋の焼失その他何かを背負っていた。温品工場は輪転機の不調や資材の不足で悩まされ、作業は限界に近づきつつあった。

(2012年10月9日朝刊掲載)

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