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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <13> 印刷再開

復刊第1号眺め感無量

 昭和20(1945)年10月19日から東洋工業(マツダ)技術陣が上流川町(広島市中区胡町)の本社に泊まり込み、温品村(東区)から運ばれた輪転機の組み立てにかかった。私はその進行を心楽しく見て回った。

 11月1日、全員が総務、復興の両部配属の臨時措置を廃して、それぞれ原部局に復帰させた。人事発令を終えて夕方、社長室に局長らが集まり、すき焼き懇談会を開いた。いよいよ5日付紙面から、本社員自らの手で印刷した新聞を再び読者に送る見通しが立った。

 この復刊第1号にどうしても自分が書いた記事を載せたくて、「あれから三月まだこの姿」という40行ものを写真付きで出稿した。みんなも手分けをして紙面の3分の2を埋めた。写真はまっ黒でハッキリしないが、今でも紙面に接すると、中国新聞社と広島の荒廃ぶりを鮮明に思い出す。

 4日の夜の輪転工場は戦場さながらの混雑ぶりだった。なかなか順調に行かなかったが、やっと明け方近く白み始めたころ、快調なリズム音が聞こえ始めた。私は傍らに立ちつくして、そのゴウゴウという音を聞きながら、死んだ誰彼の顔を思い出して涙を流した。本社で焼けた2台の輪転機を昭和22(1947)年に日本製鋼所(広島分工場、南区)で修理したが、それまではこの1台が全社員の生命の綱であった。

 刷り上がった第1号を持って自転車で府中町の家へ急いだ。「できたか」。紙面をつくづく眺める父の横顔も感慨深げであった。

 11月5日付紙面は、市民の望みは「復興の構想ではなくて寒さに対する家であり、飢えに対する食物の補給」と訴えた。がれきが街中を覆い、市民は5千戸と計画された「戦災住宅」の着工を待ち望んでいた

 6日、府中町の龍仙寺で兄利(とおる)の葬儀が営まれた(享年29)。遺骨も遺品もなかった。やっと落ち着いたところで心おきなく兄を失った悲しみに浸り切ることができた。私たちは仲のよい兄弟だった。

 兄は初めから新聞人になる気だった。東京帝大文学部に入り、小野秀雄先生(新聞学の権威)の薫陶を受けた。経営を継がせる気だが、新聞は公器である。もし不適任なところがあれば遠慮なくお教えいただきたい、と父が手紙を書いた。先生は感銘を受けたのか、後々まで父の手紙を思い出しておられた。兄はよき新聞人であった。(原爆死は)残念であった。私は兄の前にでようと思ったことはなかった。兄がいないのなら仕方がない。継ぐしかないと決心した。

 原爆投下、代行印刷、温品版、枕崎台風、再度の代行印刷、本社復帰。

 一連の歩みを振り返ると、私は中国新聞が見放されなかったわずかな幸運を思わずにはいられない。疎開工場への輪転機据え付けは原爆投下4日前である。台風で輪転機の足元近くまでが濁水にえぐられた。もうちょっとで万事休すだった。それを契機とした本社復帰。もし台風がなかったら、1カ月半も休刊にして本社へ帰るほどの重大決意が誰にできただろうか。11月からの本社印刷で、その後の新聞の自由競争に遅ればせながら間に合った。

 広島の「75年不毛説」が言われ、中国新聞再起不能説が業界に流れた。しかしその実はこういう巡り合わせで立ち直った。まさに綱渡りの危うさであった。それだけに人の力の及ばない神のおぼしめしと思わずにはいられない。

(2012年10月11日朝刊掲載)

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