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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <14> 審議室委員長

労働攻勢に覚悟決める

 戦争は終わったとはいえ、物資は極端に不足し、インフレは進んだ。政治社会状況は急速に変化した。労働攻勢は非常な高まりを見せた。

 中国新聞社でも昭和21(1946)年2月、従業員組合の結成大会が開かれた。5月には(産業別単一の)日本新聞通信放送労働組合に加入し、本社との間で労働協約を締結した。23年になると全日本新聞労働組合(全新聞)中国新聞支部となる。24年には夕刊ひろしま支部を吸収して全新聞広島支部をつくり、松江澄委員長(後に広島県議)となった。

 「夕刊ひろしま」は、統制が続いていた用紙の割り当てを受けるため別会社を設け、1946年6月1日創刊。31人が出向した

 私は労働攻勢が最も激しかった時期に総務局長、あるいは(48年12月設置の)審議室初代委員長として対策に打ち込んだ。まだ20代であったが、松江君ら組合幹部もほとんど同年配だったので違和感は覚えなかった。いや、そんなことを感じる余裕がなかったというのが正確かもしれぬ。

 中国新聞はあるいは山本家はいつ葬り去られるかもしれない。そういう動きがあった。22年6月、衆院議員を中心にしたグループが乗っ取りを策したのが分かった。社内から売り込みにいった者がいるということだった。8月には従業員一同名で米軍政部に訴状提出があり、調査を求めた。「公職追放された山本実一社長が公器たる新聞を個人的利益追求の一手段としかみておらず…」との内容だ。

 父実一の追放勅令違反容疑は交渉のたびに出され、ゆさぶられた。長男を原爆で失い、生命をかけた新聞事業を追放されて謹慎の身にこの追い打ちはひどい。いま攻めまくっている指導者たちが支配する時代がそこまで来ているのではないか。私は深刻なおびえを抱きながら立ち向かった。

 連合国軍総司令部(GHQ)は1946年、軍国主義者らの公職追放を政府に指示。範囲は翌年に言論界にも拡大され、山本実一氏は1月に社を辞任した。御手洗辰雄氏の「新聞太平記」は、終戦時あった56新聞社のうち、44社がその年に「社内革命の結果」、12社は追放令で社長以下幹部が更迭されたという

 いわゆる編集権についても、毎日のように攻め立てられた。日本新聞協会は(設立2年後の)昭和23年、争議に関連して編集権は経営管理側にあるとする声明を発表した。この問題があらゆる新聞社で論争の的であり、悩み抜いた末の結論と考えられる。現に「夕刊ひろしま」は城を明け渡した感があった。

 中国新聞社もいつその轍(てつ)を踏むかもしれない。偏向した紙面をつくるようになってしまうのなら、ない方が世の中のためになる。私は真剣に思い悩んで父に相談した。「中国新聞でないような新聞になったらどうしましょうか」。父は即座に「つぶしたらいいよ」と廃刊を示唆した。未練がましいことは言わず、根掘り葉掘り聞かなかった。私が何を悩み、何を言いたかったのか、十分承知していたようだった。私は不覚にも涙を流した。

 父がそう言ってくれるのなら迷うことはなかった。私はその覚悟を心にもって交渉の場に出た。開き直りが自信を与え、自らその後の道を切り開いたのではないか。新聞を守り抜こうとして生命の火を燃やし続けた日々、これが私の青春だったという確かな感触がある。わが青春に悔いありとは思わぬ。

(2012年10月12日朝刊掲載)

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