チェルノブイリの今 平岡敬 <下> 廃虚プリピャチ
12年10月15日
原発から3キロ 失われた街
避難者「精神的支援が重要」
「本当に美しい街でした。森があり、川があり、若い人が多く、活気に満ちていました」
プリピャチからキエフに避難してきた人々は、口々に失われた街を懐かしんだ。
プリピャチは1970年に、チェルノブイリ原発から北西へ3キロばかり離れた原野に建設された都市である。5階、9階、16階のアパートが林立し、約5万人が生活していた。
86年4月26日未明の原発爆発によって、彼らの人生は一変した。翌27日正午に「3日間ほど街を離れよ」というラジオ放送があった。事故の具体的内容は知らされなかった。避難は午後2時から始まり、ウクライナ各地から集められた1100台のバスが、全住民を運んだ。
当時10歳だった男性は「3日後には戻るのだ」と思い、遊んでいたテニスボールを持ってバスに乗った。それが住み慣れた街との別れだった。このときの放射線量は毎時30ミリシーベルト以上だったといわれている。
無人の街は26年の歳月を経て、廃虚と化していた。目に見えぬ放射能がむしばんだ「死の街」であった。
ホテル、レストラン、エネルゲティークと呼ばれた文化宮殿などに囲まれた広場は荒れ放題。地面のコンクリートを突き破ってポプラの木が生い茂っている。アパート群は窓ガラスもなく、がらんどうである。
隣接する遊園地では、赤さびた鉄塔に支えられた黄色の観覧車が静止したまま、時の経過に耐えている。朽ち果てた遊具の自動車が数台、無残な姿をさらしていた。
キエフ・デスニャンスキー地区にある避難者の互助組織「ゼムリャキ」は、プリピャチに住んでいた人たちの心のよりどころである。その事務所で、ともに原発で働いていた老夫婦の話を聞いた。
プリピャチからの避難者への特別待遇に対して、市民のねたみがあったという。避難者には優先的にアパートが与えられたが、「キエフも汚染されている。不公平だ」と言う市民がいた。またタクシーに乗って、チェルノブイリから来たと話すと「降りてくれ」と言われたこともあった。
避難者たちは被曝(ひばく)の不安より、その後のストレスの方が苦しかったと訴える。
いま避難者に対しては年金増額、公共料金は半額、食費補助(約1700円)、保養に行くときの旅費補助など、さまざまな援護策があるが、避難者たちは皆、物質的援助と同時に精神的な支援が重要だと話している。フクシマについては「チェルノブイリの経験を十分に生かしていなかったのではないか」と、批判する人もいた。
チェルノブイリの事故と福島第1原発事故とは、原子炉の構造や事故原因などに違いがあり、単純に比較はできない。しかし、情報隠しと対策の遅れが被害を拡大した事実は同じである。
放射線による影響は、答えが出るまでには数十年、あるいは数百年かかるかもしれない。福島の人々を不安に陥れている低線量被曝の将来的影響がよく分かっていないだけに、私たちは26年間に積み重ねられたチェルノブイリの研究や体験を学んで、フクシマの現実に立ち向かうべきであろう。
(2012年10月13日朝刊掲載)