『信頼』 山本朗 回想録 <15> 争議
12年10月15日
夜明けの妥結 発行再開
昭和22(1947)年、山本実一社長、山本正房副社長が公職追放該当となった。当時、中国新聞社は合名会社で2人が持ち分の4分の3近くを占め、無限責任社員だから辞めても、ただの株主というわけにはゆかない。
どう対応するか苦心した。新会社をつくって経営権を移し、合名所有の土地建物機械設備を賃貸借する。まず有限会社をつくり、後に株式会社にする案をまとめ、労組に提案した。こういう時の父の理解力と決断の速さには驚くばかりであった。
実一社長が退いた1947年1月、有限会社に改め、翌48年11月、株式会社として発足。代表取締役は築藤鞆一業務局長が兼任し、本人は取締役に就く
組合幹部は「輪転機を持たぬ新聞社はありえない」と激しく攻撃した。そして昭和23年12月である。
2日、組合より越年資金として基準賃金1カ月分の要求(8084円)があった。会社は11日、本俸の5割、危機突破資金千円などを回答した。13日、帳簿を見せよとの要求。14日、点検のため計理士を入れさせろとの要求、これは拒否する。17日、築藤代表は全社員を集めてあいさつ。組合は午後6時10分ストを宣言。闘争状態に入った。タブロイド判を発行することにし部長会に協力を求めた。私らは(本社近くの)「世羅旅館」に泊まる。
18日、組合は活字を(棚から)下ろし清掃と称して業務を妨害、会社はすぐ申し入れ(活字を棚へ)戻す。19日、組合から部長会への働き掛け強くなる。タブロイド判は本日発行不能。
21日、(占領統治に当たる)中国地方軍政部のバッキンガム中尉が来社。カウンターに軍靴のまま上がって「速やかにストを終結させるように」と演説した。組合はインターナショナルを歌って対決した。中尉は諦めて帰った。
「夕刊ひろしま」編集部へ出向していた吉田治平さん(90)は「原爆を落とした米軍とその占領政策への反発はみんな強かった」という
(妻)信子は日記にこう書いている。「17日 新聞社がストに入った。お父さま(実一氏)は『中国新聞とは手を切って、朗も他に仕事を見つけた方がいい』という話。私はあなたが選ぶどんな道でもついてゆきます」「22日 とうとう会社へ出かけたが会議中で会えない。あなた若いのだから元気出して。がんばって」
22日朝から会社、部長会、組合で妥結の道ありやの討論。午後7時ごろ(本社)1階で全員大会、不満爆発して審議室へ。その間、組合は部長を一人ずつ呼び出して「おまえは組合の敵か味方か」と怒鳴る。まさに人民裁判であり暴動の一歩前と思われた。
私は、部長会と組合が永遠に渡れぬ溝をつくるのではないか、もしくは役員会は孤立してしまうかどちらかだと思った。岩崎一太君(庶務部長。後に中国放送社長)がやってきて「(要求通り)出してやってくれ」と言った。部長会の強硬派がこういう気持ちなら「妥結できる」と喜んだ。
23日午前5時スト妥結と同時に朝刊の製作にかかった。「東条英機ら7戦犯絞首刑執行」の号外を発行した。だから発行不能は正味3日間だったわけだ(朝刊は20~22日付が、「夕刊ひろしま」は18~23日付が停止)。
組合は何かというとインターナショナルを歌った。軍政部将校の説得もはね返した。できないことは何一つもない勢いであった。会社は以降は組合の言うがままと思われた。しかし、そうではないから人生は面白いものだ。
(2012年10月13日朝刊掲載)