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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <17> 父の死

体現した社長職の極意

 昭和25(1950)年10月13日、山本実一は公職追放を特別免除された(連合国軍総司令部の指令で民間人を含め20万8千余人が追放となっていた)。父が社長に復帰してから以後、社業は苦しみながらも確実に上向いてゆくのである。

 中国新聞社は被爆10年後の1955年、全焼した広島市上流川町(中区胡町)の本社を増改築。第8回新聞大会を受け入れる

 27年5月、ラジオ中国(現中国放送)が創立され、社長に山本実一が就任した(放送開始は10月)。翌年11月、上柳町(中区橋本町)に放送会館が落成した。やがて民間テレビが許されることになり、免許を申請し、広島テレビと競合となった。ラジオ中国に弱点があるとすれば、山本実一が新聞とラジオの社長を兼ねている点であろう。言論機関を特定の勢力に握られるのは好ましくないとする考えがある。

 この時期、父は著しく健康を害していた。株の配分問題で心も痛め、医師からは「ストレスを少なくするように」と注意されていた。私は母と相談の上で、兼業問題をチャンスとして一つでも肩の荷を減らそうと決心した。父は気に入らなかっただろう。しかし他にどうしようもない切羽詰まった気持ちだった。

 実一氏は1957年ラジオ中国社長を辞任。テレビ放送は59年に始まる。広島テレビは62年開局した

 父実一は昭和33(1958)年9月17日息を引き取った。68歳であった。

 これほど社を愛した人も少なかろう。節分の前の寒い日だった。父は肺うっ血か、睡眠薬のためか、異常に興奮して4、5時間もしゃべり続けた。その間、社長たるものはいかにあるべきか、あってはならないかを私に説き続けた。平素の沈着冷静な父のものではなかったが、襟を正して聞かざるを得なかった。それは遺言というより何十年にわたって体得した極意の口伝という気がした。

 新聞社の社長の社会的責任はこの筋金がなくては果たせまい。その半面、こうまで重荷になっている社長の自覚がいささか気の毒にさえ感じられた。しかし、父はもちろんそれで満足し、一生を終えた。私は当時39歳。その年まで父のそばで経営の精神と仕方を実地に見せてもらえたのは幸せであったと思う。

 父は後継社長に私以外の者を考えていたとは思われない。創立者三朗に懇望されて業務代表社員を引き継いだことが、父の誇りであり自信であった。その実一の家系で社長をやることは当然の考えだったろう。私が継ぐのが本筋だが、それを強調するのもどうか。

 初七日の席の後、築藤鞆一(ラジオ中国社長)と糸川成辰(中国新聞社常務)両氏に腹を決める相談をした。糸川氏は「実一社長は(後継問題による)紛争が社の発展の阻害になることを最も恐れられた」と言った。築藤氏も「ここは譲るがよい」と強調した。

 9月24日の緊急役員会で私は山本正房氏を社長に、正房氏は後任専務に私を推薦し、25日付朝刊で公表した。

 「お父さんはよくやったと褒めているよ」。来社した父の友人の松井善一弁護士に言われ、私の取った行動に自信が持てるような気がした。今すぐには社長になれない。しかし実際になるまでの間に修業を積み、社運の隆盛を図ったら一番よいのではないか。父の遺志にも沿うゆえんだろうという気がしてきた。大いに頑張るぞと思った。

(2012年10月17日朝刊掲載)

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