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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <19> スポーツ中国

発刊と廃刊 責任を痛感

 昭和38(1963)年はスポーツ紙問題で明け暮れた。新年早々の役員会で、山本正房社長は「スポーツ紙発行」を言いだした。一日も早く出したい。命令だ。みんな腹から了解しない。社長は歯がゆかったらしい。会議のたびに癇癪(かんしゃく)を起こし席を立った。

 岡崎毅人事部長は初めから問題にならぬと主張していたが、翌年2月説を出してきた。新卒が一人前になるには時間がかかる。その間の労務過重問題は労組との交渉だ。4ページ建ても容易に決まらなかった。既存のスポーツ紙は8~12ページだから、その中へ切り込むのに万全ではないが、労務的に初めから無理もできない。

 スポーツ紙を出すべきか、どうか。(専務の)私は最後まで思い悩んだ。39年は東京オリンピックが開かれる。チャンスといえるが本紙との関係はどうか。

 発刊体制は局編成にせずスポーツ整理部をつくり、部長に平岡敬君(後に広島市長)を据えた。平岡君は一晩中考えて、「このスポーツ紙に心血を注いで、それがどれだけ社会貢献になるのか」と語った。そういうところが私にもある。何回となく「なぜ出さなくてはいけないのか」と立ち返り、社長からドヤされた。私が反対したら正面衝突だったろう。結局妥協した。

 「スポーツ中国」は1964年1月25日に創刊。1部5円。「共同通信の記事は本紙優先、友好紙から届くはずの記事はなかなか来ない。多くの制約がある中、7人の部員で連日明け方まで紙面をつくった」と平岡敬さん(84)。一時は5万部を超えた

 昭和39年冬の賞与交渉で「経営事情説明書」を回答に付けた。収入増が12%で経費増が17%。「スポーツ中国」の赤字2890万円などが主な理由だった。賞与アップは小幅であった。労組の星加英一委員長は「経営者は何千万円の損害を与えてもノホホンと会社にいるのか」と追及した。

 審議室を中心に「スポーツ中国」をどうするか、毎日会議に明け暮れた。廃刊も決して安穏ではない。収入はゼロで人件費は残る(発刊のため定期を含め112人を採用していた)。

 12月18日、役員が全員集まって朝から夕方まで審議し、ついに廃刊に踏み切った。積極的な支持論は一人も言わなかった。社長は発言もせず聞いた。あっさり「仕方がない」と認めた。

 28日、平岡部長や労組三役に伝えた。2、3年先に黒字になればよいという悠長な時ではない。百年の大計である新社屋の建設を急がねばならぬ。そこで廃止を決断した。紙面が悪かったわけではない―。運動部長の津田一男君は「われわれの努力が足りなかった」と涙を流した。私は経営者の責任を痛いほど感じた。

 中国新聞の魅力の一つはスポーツ、ことに広島カープの記事にあった。それをスポーツ紙と分け合ってはかなわない。弊害が徐々にしかし確実に出ていた。

 「スポーツ中国」は1965年1月31日付の第370号で終了した

 十分な見通しもなく事業を始め、全社員が全力を注いだ。それに報いるには悲しい幕切れであった。私は反対し、そして押し切られた。なぜ初めにこの時ほどの決断ができなかったのか。どんなに悪感情が残っても信ずるところに従うべきであった。私はこのスポーツ紙の発刊と廃刊のいきさつ、それに伴う経営者の責任を決して忘れまい。

(2012年10月19日朝刊掲載)

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